ハイデガーとプーチン
20世紀最大の哲学者であるハイデガーはなぜナチスに加担したのか?
私は、歴史に疎いのだが、『存在と時間』を読み解くとなんとなくわかることがある。
ハイデガーを理解すると、ウクライナ戦争を始めたプーチンの行動を少し理解できるかもしれない。(各々の主観的な生である実存的な視点であれば、本質に近づくことができるかもしれない)
ハイデガーは、存在論という「哲学の王道」を探求した。
あらゆる問いの中でも群を抜いた「そもそも論」を問うた。
それは、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか?」という問い。
一歩引いて、なぜハイデガーはそんなことを問うたのか?
それは第一次世界大戦後、善悪の価値基準が問われる激動の時代であったからだ。
つまり、存在とは何かという問いは、実存的なレベルでみれば、自分はどこに向かっていきるべきか、どう生きるべきかという問題意識に根を持っている。
ハイデガーは、『存在と時間』でそれに対して、過去に例がないくらい根本的な答えを出している(と私は思う)。
私自身、このような実存的な問いから、『存在と時間』を読んだから、そう思う。
ハイデガーは『存在と時間』で、あらゆる疑いうる判断を停止し、ありありとした自らのあり方を内省し、その構造を言語化した。これが現象学的な方法といわれる。
詳しい論理は措いておくが、これを徹底していくと、歴史にたどり着く。
われわれは、自らの欲望に基づきあらゆる対象を認識するが、その欲望というのは、私の過去の経験、さらには、私が接してきた人間、見聞きした情報に根を持つ。そして、そうした情報も、誰かの経験であり、その先もずっと続いていく。それは遡ると歴史にいきつく。
ハイデガーは、これらを、存在は時間から理解されるというテーゼでまとめているが、つまり、我々の日々の認識は、欲望に、さらに歴史に根拠を持つ。
『存在と時間』の冒頭でも、本書の取り組みがアリストテレスの「取り戻し」であると言われているのも、自分の存在論の動機が歴史をアリストテレスにまで遡るといっている。
ハイデガーがナチに加担した具体的な状況はわからないが、本質的には、自分が「何をすべきか」の問いに対して、生まれ育った場所の善悪基準に最も感情移入をすることができるという結論に至ったのではないかと思う。
プーチンの行動原理の説明として、かつての「ソビエト帝国」のようなものを再興しようとしているのではないかという説もよく耳にする。これも、何がよいかわからない状況で、方向性を失った者は、わかりやすい過去の栄光を盲信することで、自我の安定を図るのかもしれない。
確固たる指針がほしい場合、過去にあった事実というのはこの上ない根拠となる。
しかし、過去の栄光であったり、自らの生まれた郷土愛、民族愛のようなものは、必ず誰かの犠牲を必要とする。
環境問題や貧困問題などグローバルで取り組む必要があり、世界中のコミュニケーションが低コストでできる現代において、このような一部の人間や環境を犠牲にすりょうな「善」はうけいれられない。
領土拡大や、過去の経済的に潤っていた時代などに回帰することは正当化できない。
グローバルで共感できるものは理念しかない。
ヘーゲルの哲学を基調とする「自由」を認め合う社会。そういう理念に対して、まず世界が共通了解を築く必要がある。
ロシアを悪者にすることでは、根本的な問題解決にはならない。
自由の相互承認が実現された社会をゴールとすれば、最善策がなんなのか、自ずと決まってくると思う。
これは、時代の問題なのかもしれない。
情報化社会、グローバル資本主義時代の人間がマジョリティになれば、理不尽な歴史を根拠にするような行動はしない。今の世代が数十年後に交替されれば、グローバルで合意形成が前提になっていることを願う。