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外国語習得【語学】はスポーツに近いという話〜知の世界はエピステーメーとテクネーの組み合わせ〜 #英語 #中国語
私は中国語と日本語を教えているが、そのときに重要視しているのは外国語を身につけることは、「知識ではなく、技術である」という点だ。
これはエピステーメーとテクネーという概念で考えるとわかりやすい。
立花隆さんが著書『東大生はバカになったか 知的亡国論+現代教養論』(文春文庫)の中でこの説明を丁寧にしている。
エピステーメーとは、ラテン語のスキエンティアにあたり、これが英語のサイエンスの語源で、つまり知識である。
テクネーとは、技術であり、テクノロジーの語源。いわゆるわれわれが思うテクノロジーとは違い、日本語的には技(わざ)といったほうがいいかもしれない、という。(私としては、「技術」でいいと思うが)
知識は頭で覚えるものであるのに対して、テクネーは講義だけでは教えられなく実習が必要。実習を繰り返すことで身体に覚え込ませる。身体で覚えたことは頭で覚える知識とは、脳の別の記憶システムを使って脳の別の場所にしまいこまれる。
頭で覚える知識は、陳述記憶といって内容を言語化することが可能な記憶
身体で覚えるテクネーは、非陳述記憶でそのエッセンス部分は言語化することができない。これは手続き記憶ともいい、身体各部をどのような手順で動かしていくと、目的のパフォーマンスがうまく実現されるかという、身体各部のプログラムのような形で身体が覚える(実際は、身体そのものが覚えるわけではなく身体プログラムを管理する小脳コンピュータにしまいこまれると考えられる)
いったん身体が覚えてしまうと、いちいち細かな動作を意識せずにほとんど自動化された形でスラスラと発現される一連の動作である。
自転車の乗り方、自動車の運転、ピアノの演奏、スポーツの動作、料理
テクネーについても言語化することが可能な部分がありさまざまな領域のテクネーについて解説書がある。
自動車のドライビングてくんっく、ピアノ演奏術、各種スポーツの技、上手な料理のコツ。しかしそういう本をいくら読んでも畳の上の水練と同じでテクネーに熟達できるわけではない。
テクネーの本体部分は言語化不可能でその技の伝承も実践を通じてするしかない。
そして、今日のポイントである、外国語習得はテクネーであるということ。
知の世界というと、もっぱらエピステーメーの世界と受け取られるが、実は知の世界においてもエピステーメーとみえて実質テクネーとか、ほとんどテクネーそのものといった部類の知が沢山ある。
日本の英語教育の失敗はそれをもっぱらエピステーメーとして教育しおうとしてテクネーとして教えなかった(適切な教師の不足から教えられなかった)ことにある、と立花さんはいう。
読み書き用英語として言語情報にくだいた形でしか教えられず、耳と口(聴覚と発声器官総動員)による音声コミュニケーション用英語として教えられなかったことにある。
テクネーの記憶とエピステーメーの記憶の最大の違いは覚えたことを使うときにあらわれる。テクネーとして身体で覚えた技は考えることなく反射的に発現させることができる。英語ををテクネーとして覚えた人は考え込むことなく普通に会話できるが、エピステーメー英語の人は会話しようとしても最初の一センテンスをひねりだすのも考え込んでしまってスムーズな会話ができない。
しゃべる能力は特にテクネー部分が大きい。しゃべるには、気管、くちびる、喉、口蓋など、発声にかかわる器官の全てを動員することが必要で、しかもそれを巧みに連携させる必要がある。
知的能力についても、テクネー部分が大きい技を身につけるには、何によらず、実践、実習をみっちりやる以外に手がない。
外国語学習でいうと、この実践を最も効率的にできるのが音読や瞬間作文というトレーニングだ。
ただ、学習者にしてみれば、
語学はスポーツに近いことを理解しないと、こうしたトレーニングに打ち込むことはできないだろう。このあたりはしっかり伝えていかないとだめだ。