人間社会の未来の考える上での最重要概念「モチベーション格差」と「自由意志」について〜DaiGoのホームレスの命の軽視する発言を受けて〜
メンタリスト・DaiGoのホームレスの人や生活保護受給者に対する発言が、「優生思想に直結する」「差別や攻撃をあおる」などとして、批判を集めている。DaiGoは自らのYouTubeで「生活保護の人が生きてても僕は別に得しない」「必要のない命は僕にとって軽い」などと述べた。
われわれの生にとって、最大の神秘は「所与」である。
「物心ついたときには」という表現があるが、これはとてつもない最大の謎を秘めている。
われわれは、気づいたときには、既にある状況に投げ込まれている。それは、ある社会的な環境、さらには遺伝子的な性格や傾向性を持った人間として、人生が始まる。降ってくるものである。ここについて科学は何も解明できていない。
これを哲学者のハイデガーは、「被投性」と呼んでいる。
仮に、投げられた環境が、人間社会において悪い条件であれば、その人の人生は、ある程度方向性が決まってしまうだろう。
それは、初期値とベクトルが与えられれば、後は物理法則に従うように動いているビリヤードの球のように。(ラプラスの悪魔)
さて、
少し視点を変えたい。
世の中には、「貧しい家庭環境でありながら、努力をして社会的成功を掴んだ」という類の人がいる。
(社会的成功の定義はいろいろあるが、グローバル資本主義においては社会的地位、つまり権力と財力としておく)
竹中平蔵さんなどはいい例かもしれない。
平凡な家庭に生まれながらも、自ら志を高く持ち、社会的な成功を収めているといえる。
また、中国で活躍した加藤嘉一さんなんかもいい例。農民の家に生まれ、お金もなかったが、勉強していい成績を収めて奨学金で中国留学して大成している。
しかし、このような人の「頑張り」や「努力」は、どの程度「被投性」と関係があるのだろうか。
仮に、彼らが幼少期に出会った人物、或いは、接したメディアの情報などで偶然的に刺激を受けて、「頑張る」というモチベーションを与えられたとすれば、それは「被投性」で説明ができてしまう。
つまり、幼少期に「いじめられた」とか「貧乏で辛い思いをした」とかいうのが、そのまま大人になっても引きずって社会的弱者になってしまうこともあるだろうが、一方で、それらがよい刺激となり、頑張るモチベーションになることもある。
貧乏な環境で生まれても、ある時期にこういう刺激があれば、社会的に成功する、というような因果関係で説明できるのであれば、今の70億人の人類各々の成功或いは不成功の状態は、初期条件で決まっていると言えてしまう。
これは自由意志の問題とも深く結びつく。
ある実験では、私が右手を挙げるという決定をする前から既に脳内にそれに対応する物理的な現象があることを示唆するものもある。
しかし、
われわれの主観が大事だ。
われわれの実存世界において、「自由意志」の存在は確固たるものだ。
私が昼飯をうどんにするか、そばにするかを選べるという「自由」は間違いないと確信している。
それが実は脳内ではただの物理的な因果に伴う心理現象だと言われても、それは無視できる。(なぜなら、そういう客観性よりも、われわれにとっては主観性が大事だから。現象学)
このなると、自由意志、個々人の努力についてどのように考えればいいのか?
ホームレスになっている人は、初期条件が悪く、いい刺激もなかったのだから、しょうがない。という結論か?或いは、努力してたら、今はもっと社会的に成功していた、という話になるのか?
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最終的にこの決着は個々人の考えに依るとしか言えない。
私は現象学を学んできたので、あらゆることがらの客観性というのは、主観における確信であると理解している。
「努力」or「初期条件」の話は、その問題を提起する人間とホームレスが話をしてみた上で、双方納得いく形で収まるところが答えとなる。
ホームレスにとって、今の状況が最善の選択だと考えているかもしれないそうであれば、他者が他者の基準を持ち出して彼または彼女の人生を評価する正当性はない。
或いは、コミュニケーションの中で、ホームレスは、幾度となる妥協や怠惰な選択の末、今の状態を後悔しているかもしれない。
DaiGOの誤りは、他者を勝手に自分の評価基準で評価しているところだ。
彼自身、彼が何を考えているかを他者が知り得ないことを知っている。
だったら、彼もいかなる他者をも尊重する必要がある。
仮に、彼個人がホームレスを疎んでいるなら、それはそれで彼自身の主張として主張することは何ら問題ない。
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