労働の義務の正当性
日本国憲法第二十七条一項は、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」としている。これが、「国民の三大義務」のうちの一つである、勤労の義務の規定であるが、これについて、みなさまはどう思うだろうか?
このnoteでよく書くが、人間の生は被投性を持つ。
つまり、我々は物心ついたころには、あるところの誰かという形で世界内存在しており、生が始まってしまっている。
それは選べるものではなく、降ってくるもの。
それが被投性だ。
この偶然的な境遇で、いきなり「義務」を背負わされたらたまらん、とも思う。
ただ、もちろん、これは社会的な規定に過ぎず、私達は自分の身体を自由にいちおうは動かせる。
だから、こんな労働の義務の規定など無視して、山の奥にこもって自給自足の生活をすることもできる。
ただ、この労働の義務を正当化するロジックもある。
われわれの人間社会はそもそも、狩猟採集などの原始的な生活の延長線上にあるということだ。
食料がないとか、熱さや寒さから見を守るとか、暇を潰すとか、そういうリスクを管理するために集団生活をして、社会を形成しているわけだ。
だから、この社会のルールに従わないという選択をすることは、原始的な生活に回帰することの宣言でもある。
今の発展した社会であれば、障害を持ってうまれてもそれを支える仕組みがあるし、働いても病気になったり、精神的につらくなれば、医療保険や生活保護の仕組みもある。原始的な世界でこうなれば、即、死につながってしまう。
だから、投げ込まれた生ではあるが、みんなでリスクを負担する社会の恩恵を受ける分、そこに労働という貢献が求められるのは理に適っている。
今のグローバル資本主義社会では、その貢献はお金で測られるのが普通だ。
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だいぶ前置きが長くなったが、今回言いたかったのは、ベーシックインカムなど生まれた時点で生活が保証されている社会において、労働の義務はなくなるのあか?
働かないのが当たり前になったら、どうなるか?
それはつまり社会を発展させる行動が促進されない状況になる。つまり、人間がより安定して長期に生き延びられるために何かする動力がなくなるのではないか?
そんな状態になるとは思えないが、ただ、みんなやる気がなくなれば、人類はまた、原始的な生活に戻るか、その途中で絶滅するだろう。また、万人の万人に対する戦いも起きる。
ただ、
基本、みんな長く生きたいと考えて行動しているのだから、それにつながる行動は評価され、金銭に限らず何かしらの報酬が与えられるだろう。だから、そんなことにはならない。
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