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文系と理系の違い #ウィトゲンシュタイン #要素命題
文系と理系を分けるのはナンセンスだという議論がよくあるが、分類としてわけておくのは世の中を理解する上で役に立つだろう。ただ、色々な定義があるがどれもはっきりしない。
この違い、決定的に言ってしまう「その研究領域で使う言語が一義的に決まるか否か」ということになると思う。
ウィトゲンシュタインは、前期の仕事で言葉は世界を写し取るという発想で、あらゆる事態は、それが世界を正しく写し取っているか否かを判断できる要素命題という最小単位に分解できると言った。事態を示す命題が正しければ事実となる。
でも、この最小単位の「要素命題」と世界の一致をどう確認するかについては述べていない。目視でめちゃくちゃ厳密に確認しようとしても、原理的にその「一致」は不可能だ。なぜなら我々は主観から外に出られないから。
冒頭の問いに戻ると、理系的学問も文系的学問もどちらもできるだけ最小の単位に要素を分解し、それを検証するというのは同じだ。これが科学的といえる。
しかし、そこで使われる言語の違いがある。私は理系的学問に疎いのだが、多くは数字や目視で確認できるようなものが対象となり、人により解釈の違いが問題にならない。
一方で、文系の場合は、「GDP」「幸福」「感情」「心」など人により大いに解釈が異なる語を使って学問をする。つまり要素命題に落とし込み検証する。でも、検証しても、そもそもの語が示す対象がブレているので、その結果の用途が理系的学問とは異なる。りんごが落ちるのを数式でかけるように、人間の心理を公式化できないのは、複雑性だけでなく言葉が対象とするものを性質の違いにある。
当たり前のことなのだが、意外とはっきりしない理系と文系の違いについての一つの考え方。