なぜ和歌は57韻律なのか・長短律の機能に関する考察
こんばんは。Sagishiです。
今回は、和歌の57韻律(長短律)について考察をしていきます。
1 なぜ和歌は57韻律なのか
以前、わたしは「和歌が57韻律なのは漢詩の影響ではなく、日本語の特性に由来すると考えたほうが妥当だ」という主張の記事を書きました。
わたしは、これまで繰り返されてきた「神学論」的な議論からは早く卒業しないといけないと思っています。ゆえに、何かを主張するさいにはその根拠を明示して、議論を生産的にしたいと思っています。
「漢詩影響仮説」が正しいなら「和歌の句の音数は、漢詩と同じように5555や7777といった一定の律になっていないとおかしい」はずです。
たとえば他国の定型詩は、漢詩に限らず、英語のソネットやイタリア語のテルツァリーマ、フランス語のアレクサンドランなど、一行の音節数はおおむね一定です。(このような詩歌を本記事では今後『一定律』と呼びます)
ルバーイーやCommon metre、時調など一定律ではない定型詩(例外)もありますが、和歌が57韻律(長短律)なのは何か理由があるはずです。
2 差異と反復
2-1 脚韻の機能
まずは「脚韻」に着目しました。他国の一定律詩にはほぼ必ず「脚韻」が取り入れられていますが、日本語の定型詩に「脚韻」はありません。
「脚韻」に厳格な定めがない定型詩というのは、現在わたしが把握しているものだと、古英語の頭韻詩、韓国の時調、日本の和歌ぐらいです。
そもそも「脚韻」とは何でしょうか。どういう理由で必要とされているのでしょうか。
リズムが産まれるとか、言語遊戯的な楽しみがあるとか、そういうことがよく言われますが、わたしは「脚韻」には『差異と反復』という秩序を生む「機能」がある、だから必要とされている、と考えます。
行末に「脚韻」をすることによって、そこが行の「終端」であることが明示されます。そして「脚韻」が『差異と反復』の繰り返しを担います。
反復がなければ単なるホワイトノイズ、差異がなければ単調な繰り返しです。どちらが欠けても「形式」になりません。ゆえに「脚韻」には『差異と反復』=形式を作り出す機能があると考えます。
2-2 長短律の機能
では、57韻律(長短律)の機能とは何でしょうか。
これは仮説ですが、実は「長短律」は「脚韻」と同等の機能を果たしているのではないか、とわたしは考えています。
和歌は「5音」と「7音」という2つの構造体が交互表出するスタイルになっていますが、これは早い話『差異と反復』ではないか、と考えます。
例えば「五七調」の短歌は「57/57/7」という構成です。実際、二句切れ・四句切れと言いますし、「7音句」が「終端」を示すマーカーとして機能していると考えれば、57韻律(長短律)を『差異と反復』の構造と捉えることができます。
「終端」の役目を「長短律」が果たしているので、『日本語の和歌が「脚韻」を不要としたのは自然なことだった』というふうに「脚韻」をするインセンティブが和歌に生まれなかった理由も説明できるように思います。
(複合的要因により、1990年代より前の日本語では脚韻を効果的に使用することが難しかった、という理由も大きいと考えますが)
一定律詩は、基本的に「行」の「音節数」が揃えられるため「終端」がどこなのかを「脚韻」で明示しており、長短律詩は「行」の「終端」を「音数の異なる句」で示している、機能から見ることで、このような仮説を立てることができると考えます。
3 行と半句
3-1 行と半句の構造
上記の考えを踏まえると、和歌において2句で構成される単位を「行」、1句で構成される単位を「半句」と呼ぶのが適切に思えてきます。
例えば、フランス語のアレクサンドランという形式では、1行12音節のうち、だいたい6音節目にcaesura(句切れ)があり、これで区切られる単位を「半句」と呼びます。
同様に、古英語の頭韻詩も「行」と「半句」(半行)の関係があります。
このような視座から見ると、和歌も「行」と「半句」の関係のように見ることができ、普遍的なフォーマットとして理解できるようになります。
3-2 七五調への考察
と、ここで気づいたのですが、「五七調」と違って「七五調」というのはあまり『差異と反復』の構造とはいえないのではないか? と思いました。
七五調は初句・三句切れであり、構成としては「5/75/77」です。五七調と違って「57/57」のような構造の反復になっていません。
ということは、五七調と七五調は、単純な音数律の順序が異なるという意味にとどまらず、実は構造的にかなり異なるスタイルなのかもしれません。
五七調は反復の構造なので、世界の定型詩とある程度の比較が可能なのに対し、七五調は非反復の構造なので、比較対象になるのは、最後に音数律が崩れる韓国の時調(34/34/34/34/35/43)くらいしか今のところは思いつきません。
和歌のなかでの考察もしてみると、五七調はそもそも長歌(575757…577)のスタイルから来ており、長歌の「最後に7音を加える」という規則も、五七調の短歌は同じです。旋頭歌(577/577)や仏足石歌(575777)といった派生スタイルも、これと同様でしょう。
上記と異なるのは、都々逸(7775)でしょうか。都々逸は「34/43/34/5」あるいは「44/43/44/5」という構造なので、第2句の「3音」が「終端」マーカーになっており、第1句と第3句が反復の構造と考えることもできます。
なので七五調の「5/75/77」というのは、なかなかイレギュラーなスタイルに思えます。七五調の短歌を構造的にするなら、「5/75/75」のようになるはずでは、と思います。まだわたしは勉強不足ですが、ここは注意深く検討しないといけないでしょう。
余談ですが、わたしは昔(10年以上前ですが…)短歌を書くこともありましたが、なぜか自然と57575という風になっていることが多かったです。もしかしたら直感的に構造的なスタイルを選択しようとしていたのかもしれません。
あと不思議なのは、五七調は「素朴で力強い感じを与える」、七五調は「優しく優雅な感じを与える」といわれていることですね。わたしもそう感じますが、なぜそのような効果が生じるのかについても、よく検討をしないといけません。
4 もし和歌が一定律詩だったら
もし和歌が「5555」や「7777」という一定律詩の構造だったら、「脚韻」を必要とする遠心力(インセンティブ)がおそらく働いたのではないかと思います。
しかし、おそらく実際には脚韻は定着しなかったとわたしは推測します。それは以前の記事で書いた通り「多音節韻が登場してなかった」ためです。
このあたりの深掘りはまた別の記事でも書いていくつもりですが、和歌においてはすべての音節がモーラ音節(軽音節)になるため、1音節だけの脚韻では効果的な「響き」を出すことが困難でした。
当時の日本語では有効な脚韻をすることができなかったため、一定律詩を試みると「どこで句切れるのか分からない」ということになり、実現できなかったであろう、とわたしは考えます。
ただ、古英語の頭韻詩のようなスタイルであれば、十分定着した可能性はあるとは思います。が、実際には「掛詞」のようなスタイルに落ち着いたので、これも成されなかったです。
5 まとめ
以上、わたしは和歌の「長短律」には、他国の一定律詩における「脚韻」と同等に、『差異と反復』の構造を作る機能がある、と考察しました。
ただ、七五調は非反復の構造と考えることもできるため、この考察にはまだ不足している点が多いです。
また、なぜ「5音」と「7音」に収斂したのかも現時点では謎です。
和歌はすべての音節がモーラ音節(軽音節)であり、音節の持続時間が比較的短いことから、2音節の差異がなければ、適切な「差異」として機能しなかったであろうことも推察できます。が、都々逸が3443345のような構造になっていることを考えれば、実は3音や4音でも実現できた可能性はあるようにも思えます。
ただ、都々逸は1800年以降とかなり新しい時代に成立したスタイルですので、日本語の音韻体系にも多くの変化がありますし、単純な比較は難しいかもしれません。
押韻論をやっているからでしょうね、知らず知らずのうちに韻律に関する論にも興味が出てきています。日本語の和歌や近代短歌の世界で、韻律がどのように議論されてきたのかもわたしは知らないので、もっと勉強したいなと感じています。
詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/