日本語の詩歌の脚韻はどのようなスタイルにすれば良いのか-翻訳を通して考える-
こんばんは。Sagishiです。
今回は、詩の邦訳の脚韻について書いていきます。
日本の詩歌の翻訳をみると、なかなか原詩通りにrhymeをしているものが少ないです。しかし、その希少なrhymeを取り入れている翻訳も、どことなくぎこちなさがあるようなものも多いです。
日本の詩歌文学においては、まだrhymeというものが浸透しておらず、技術的にどのように扱えば良いのか、どのようなrhymeをすれば良くなるのか、自然になるのかが、あまり周知されていないと思います。
今回は、「詩歌の翻訳における日本語のrhyme」に焦点を当てて、どのようなrhymeを目指していけば良いかを考えます。
1 Salut翻訳
1-1 原詩
ステファン・マラルメ『Salut』を引きます。
フランス語の詩で、見事なソネットの詩歌です。ABBA/ABBA/CCD/EDEのrhyme schemeが組まれています。
1-2 既存の翻訳
いくつか既存の翻訳を引いてみます。
偉大な先人の翻訳に敬意を表しますが、いずれも脚韻はされていないようです。内容をトレースすることを重視しているといえます。
1-3 自作の翻訳例~修正前~
さて、ここからは2020年にわたしが翻訳した『Salut』を見ていきます。
とりあえずABBA/CDDC/EEF/GFGになるようにしているのと、あとなるべく2モーラ押韻になるように試みています。
いかがでしょうか。うーん、頑張ってはいますが、ちょっと微妙感はありますね。特に1モーラだけの脚韻箇所は、イマイチです。このときはまだわたしの押韻理論もダメダメな状態だったので、「ひかり/ない」のような音節を無視するrhymeもあり、イケてません。
翻訳の内容はここでは一旦置いておいて、どのような部分にrhymeの問題点があるかを考えていきましょう。
1-4 日本詩歌のrhymeはアクセント句単位にするべき
日本語の厄介なところは、おおよそ文節の単位で「アクセント句」が生成されることです。
例えば、「だけで/おぼれて」というペアだと、前者は「だけで」で1つのアクセント句(アクセントのまとまり)であり、後者は「おぼれて」で1つのアクセント句です。
要するに、前者は3モーラで1つのまとまりになっていて、後者は4モーラで1つのまとまりになっているのに、そのまとまりの途中からrhymeを開始しても、適切な響きを得られないのです。
以前、アクセント句の句頭と句末に、認知的な重みづけがされているのではという仮説を書きましたが、実際アクセント句の句頭と句末の母音を揃えるほうが、その中間の音を揃えるよりも聴感上は重要になる、とわたしは体感的に思っています。
「だけで/おぼれて」のような、アクセント句の途中からrhymeするというのは、よって推奨できません。
ではどうすれば良いかというと、わたしはアクセント句同士で脚韻をすることを推奨しています。
「だけで」のペアなら「果てへ」など、「おぼれて」のペアなら「求めて」など、アクセント句同士のペアにする、音数を揃える、可能ならトーンの曲線も揃える、こういうrhymeにすべきだと考えています。
たとえば英語ならストレス音節同士で脚韻しますし、中国語なら同じ声調で揃えます、つまりアクセントを揃えています。日本語もこれに倣い、アクセントを揃えるというのを意識すべき、というのがわたしの意見です。
アクセント句の途中から押韻を開始してしまうというのは、日本語の押韻詩がずっと陥っている問題ですので、これをわたしは解消すべきと思っています。
1-5 自作の翻訳例~修正後~
そして、次の翻訳例が、脚韻箇所をアクセント句同士で揃えたものです。
アクセント句ごとに「/」を配置すると、次のようになります。意識的に脚韻した箇所は太字で明示します。
このようにアクセント句同士が対応する脚韻ペアにすることで、「詩句/水/いる/いく」「あり/立ち/異なり/者たち」「よろめき/恐れに」「祝盃を/愁哀も」「星/時」のように、脚韻ペア同士を声に出してもちゃんと押韻だと分かるような響きのある、パッキリとしたペアになる、とわたしは考えています。
2 課題事項
アクセント句同士が対応する脚韻ペアにすることで、rhymeの不自然さや、響きの弱さといった弱点は解消されます。しかし、西洋詩流のソネットと比較すると、まだ課題はあります。
2-1 音数律を反映できていない
実際問題、ソネットなどには音数律がありますが、翻訳では音数律の規則まで導入することができていません。
しかし現実問題としては、現代日本語東京方言をベースにした詩歌だと、どうしても音数律を構築することは難しい、というかほぼ不可能だというのがあります。
最低限できることといえば、モーラ数を揃えることですが、どこまで作品に寄与するかは現時点ではなんともいえません。
2-2 Perfect rhymeになっていない
西洋詩の脚韻というのは、基本的には音節主音以降の音声要素が完全に揃ったPerfect rhymeです。salut[saly]/valut[valy]のようにcodaを揃えることがクラシックなrhymeとされています。
例えば、「詩句/いく」「あり/なり」のようなペアだと、語末子音が揃っているので日本語でもPerfectといえますが、「水/いる」「よろめき/恐れに」「祝盃を/愁哀も」「星/時」のようなペアだと、語末子音が揃っていないので、Assonanceなrhymeといえます。
日本語におけるクラシックなrhymeも、イタリア語の標準的なrhyme(canto/tantoなど)風に、2モーラ音節+1モーラ音節のrhymeで、1モーラ音節は完全一致が推奨されるといえますが、まぁ音節構造の違いや語彙制約の問題がどうしてもありますし、Assonanceなrhymeになってしまうかなと思います。
個人的には、Assonanceなrhymeをする代わりにではないですが、日本語のrhymeに特徴的な多音節韻であることを採用することで、それで補えるのではないかなぁ、とは思っています。
2-3 不完全韻はあまり推奨しない
ついつい使っていますが、「祝盃を/愁哀も」のような不完全韻は、詩歌においてはあまり推奨できません。
「祝盃を」は4音節5モーラですが、「愁哀も」は3音節5モーラです。このような音節数がズレる日本式の不完全韻は、音楽ではやっても良いですが、詩歌においてはあまりやらないようにしましょう。
一般的に響きが出ない原因になりますし、音節を揃えるのを基本にしましょう。
まとめ
日本語の詩歌におけるrhymeはどのようにすれば技術的にも聴感的にも良くなるのか、そのためにはアクセント句同士のペアが推奨されます、ということを書きました。
これで完成というわけではないですが、こうしたほうが良い、という方向性を示すことはできているのではと思います。
まぁ日本語のrhymeってどうしても日本式な多音節韻になるので、それを考えるのは慣れてないひとほど結構大変です。ですが、そこは詩歌をやる人間のレベルが上がるしかない、と思っています。
日本語の押韻詩に、ぜひ貢献できればと思います。