『批評の教室 ――チョウのように読み、ハチのように書く』(書評ラジオ「竹村りゑの木曜日のブックマーカー」4月14日放送分)
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<収録を終えて>
最近、自分のレビューがマンネリ化しているような気がして、どうしたものか……と悩んでいる時に出会った本です。とても良かったです。数えてみると貼った付箋がきっかり50枚でした。学ぶところが多かったです。
「木曜日のブックマーカー」では、SNSの時代の情報発信のあり方について何度か私の考えをお話させてもらっているのですが、改めて今の時代に必要な教養の1つとして「批評する」があるのではないかと思います。
インターネットにおける発信者のメリットとして、気軽に自分の意見が言える、自己表現ができるというというものがあります。
ただ、そのために他者への攻撃という手法を選んでしまうとすれば、それはやはり健全ではないのだろうなと思います。
誰かがAを悪いという。そうすると、より痛烈な言葉でAを否定するための大喜利大会のようなものが始まってしまうのは残念なことです。
『批評の教室』によって私が感じたのは、Aを否定するためにはAを深く理解しなければならないと言うことです。そして、その理解の過程を経ることで、「否定」はただ虚栄心を満たすだけでなく、「批評」として昇華され、そのときに本質的に「自己表現したい」という発信者の狙いが達成されるのではないかと思います。
これは否定したい時だけでなく、肯定したいときも同様です。ただリズミカルな肯定の言葉すを羅列するのでは、空虚なだけではないでしょうか。「一瞬バズる」という現象も、結局は理解の工程を経ないままで、肯定のみが膨らんだ結果なのではないかと思います。
筆者の北村さんは、文中でこのように言っています。
理解の工程を経ないままで行われる「否定」は暴力ですし、理解の工程を経ないままで行われる「肯定」は消費です。
しかし、(少なくとも自らの出来る範囲で)対象を理解しようと努めれば、その上で行われる「否定」も「肯定」もコミュニケーションになるのです。
この本で語られるのは、そんな「理解の工程」をどのように経るかの指南書です。明日には忘れてしまうようなものを瞬間的に好きになったり嫌いになったりするのではなく、1つのコンテンツを知っていく上で、好きになったり嫌いになったりしながら自分の意見を精錬させていく、それによって自らがいつの間にか洗練されていく、主体的に生きるとはそのようなことではないのかなと思っています。
なんだか、今回は真面目ですね、すみません笑
それでは、またお会いしましょう。
<了>