哲学する純文学、学ぶ大衆文学、ボット化が進むライトノベル

先日、ラジオリスナーさんから質問を頂きました。

曰く、「純文学とライトノベルはどう違うんですか?」

純文学の比較対象として、大衆文学ではなくライトノベルがピックアップされたということ。少し驚いたものの、これも時代なのでしょうか。

若輩者の自分に求められているのは、一般的な文学論ではないはず。私なりの考えでよければ、と断りつつ独自の見解を述べるところから番組をスタートさせました。

以下は、その時の自分の言葉を、多少修正を入れた上でまとめたものです。

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まずは、純文学とライトノベルの違いを語るにあたって、それぞれを定義付けてみたいと思います。

純文学の形を知るには、その対義語に位置する大衆文学と比較するのが有効です。芥川賞と直木賞の違いで問われることが多いですが、芥川賞は純文学を、直木賞は大衆文学を対象にしています。

一般に「純文学と大衆文学の違い」は、「芸術性に重きを置く純文学と、娯楽性に重きを置く大衆文学」と言われているそうです。

うーん、分かりづらい。
そもそも芸術性とは何を指すのか、はなして娯楽性と芸術性は同時に成立しないのか、色々疑問がむくむく湧いてきます。

ここであえて自分なりの境界線を引くとするならば、「哲学のための文学」が純文学で、「知識のための文学」が大衆文学ではないかなーと思うんです。

自分とは何なのか、他人とは何なのか、世界とは何なのか、といった、古来より先人たちが考え続けてきた普遍的な疑問について、何らかの著者なりの答えを導き出している文学は「純文学」な気がします。

対して、今まで知りえなかった世界や発想について、たとえフィクションであろうと、著者から「新しい知識」を得ることが出来れば、それは「大衆文学」と呼びたいように思います。

でも、そう考えるとまた疑問が浮かんできます。
本を読んだあとに自分の中に何が残るのか、人生に対しての答えを得たのか、それとも新しい知識を得たのか、それは読んだ人によって違うはずです。

だから「純文学」と「大衆文学」の境界線は、自分の中にしか存在しないんじゃないでしょうか。読んだあとに「ああ自分の世界を深められたなあ」と思えば「純文学」、「へーこんな世界があるんだ知らなかった」と思えば「大衆文学」だと、勝手に決めてしまえばいいんです。


自分自身を深く掘れば、純文学。
自分自身を横に拡張できれば、大衆文学と言ってもいいかもしれません。

そしてようやく、最初の質問「純文学とライトノベルの違い」に戻ります。

ライトノベルの定義については、私は「人物設定に一貫性があって矛盾がない」文学のことだと感じています。

おっちょこちょいの主人公、クールなクラスメイト、内気な美少女の幼馴染…などなど、ライトノベルの登場人物は、みんなとても個性的で、そしてその個性を補強するような言動しかとりません。言ってしまえば、一人のキャラクターの中に多層的な精神構造は見られないのです。「こういう人は、こういう事しがちだよね」という読者の予想をなぞり続けます。

勝ち気なお嬢様は「~ですわ」で喋るし、プライドの高さのあまり周囲に誤解を与えがちだけど、実は繊細で寂しがりや、というプロトタイプ。

ヤレヤレ系の男子高校生は、「はぁ…、~だろ」で喋るし、やる気のない言動を繰り返すあまり周囲に役立たず扱いされるけど、実は賢くてシチュエーションによっては情熱的な一面を見せる、というプロトタイプ。

もちろん、弱虫な主人公がクライマックスで勇気を振り絞って…といった展開もありますが、それは人物の描写のためではなく物語上のイベントのために存在するだけです。

だからこそ、学園物や異世界物など、とにかく舞台設定が重要です。なぜならば、そこに解き放たれる登場人物たちには、他のライトノベルと比較しても大きな違いがないからです。キャラクターはそれぞれが「典型的な○○タイプ」なので、このままでは他の小説との違いが生まれません。だから、作者は世界観で差別化を図ります。

たとえ主役であったとしても、彼らは決められた性格設定から逸脱することのない、ある種「ボット化」した存在なのです。

凝った設定が施された世界で、一人ひとりがプロトタイプ化された登場人物たちがどう振る舞うのか、その組み合わせを楽しむのがライトノベルの嗜み方なのではないでしょうか。ライトノベルにおける世界観の作り込みは、見事だと思います。

それに対して、純文学は、登場人物たちに葛藤と矛盾があります。

現実の人間が、時と場合によって違う、沢山の顔を持っているように、純文学の人物たちは、沢山の矛盾を抱えながら物語の中を生きています。
だからこそ、読者は登場人物に対し親近感を覚え、彼らの言動を他人事ではなく自分自身のように考えることができます。そして、自分ごとのように感じながらも、読み手として第三者の視点を持てるのです。それこそが純文学が哲学のための文学であると、私が考える理由です。

というわけで、「純文学とライトノベルの違い」は、登場人物に「ああ、こういう人実際にいそうだなあ」と、リアリティを感じられたら「純文学」であり、登場人物に「ああ、こういう人、漫画やドラマに出てきそうだなあ」と、フィクションを感じたら「ライトノベル」ということで、いかがでしょうか。

もちろん、文学の専門家たちが「文学作品の分類」について沢山意見を述べているので、正確なことが知りたければそちらを調べて頂いた方が良いと思います。
ここで述べたのは、あくまで私の独断と偏見です。

今後は、ライトノベルの定義について今の社会情勢も含めて検討を進めたいと思います。

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