求めらねぬもの - 壱
雨音を然程感じる事のない梅雨が明け、この国に呼吸すらままならない気候が訪れる。
近年、社会はエネルギー不足で悲鳴を上げる一方で一歩外へ出れば、人々の肉体は対応しきれないほどの熱と光を全身に浴びて悲鳴を上げるというとても奇妙な光景を目にするようになった。
物理的なものも心理的なものも、エネルギー全般を我々人類が上手にコントロールしてこの大自然と共存出来ていないのは明らかだ。
そんな事を思いながらマスクをずらして、息を切らしながら帰宅する何ということもないある平日の暮れ。
夜の七時を回っても窓の外は明るく、空は青に赤が交わりながら大きく広がっている。
家族や会社や友人、恋人同士。様々な人と人の群れが交差しあってまとまったり、ちらばったりしながら忙しなく細やかに、緩やかに大きく変化しながらいくつもの季節を繰り返しながら歴史が進んでゆく。
そうかと思えば、人が抱える喜びや悩みの種は然程大きく変化する事なく世代を超えて開いたり閉じたり繰り返されている様に思える。
変わり続ける事、考え続ける事が大切だと私達が思う理由の一つにはそもそもあまり人類の脳というのは同じ事を意識し続けられない一面や大きく変化する事が出来なかったり抵抗する習性があったりするかもしれない。
そんな事を漠然と思いながら夕焼けに背を向け、帰宅した私は冷たいコーヒーを飲みながら煙草の煙をゆらし、籠った熱を逃していた。
私は特別何か優れた才能や、ずば抜けた知識があるわけでもなく、一つのことを継続して努力する事もあまり得意ではないのだけれど、なんという事のない日常に流されつつも時折置かれている環境や自分自身を観察し思考を巡らして時間を弄ぶことに関しては他人より一寸尺ほど抜けているのではないかという根拠のない自信だけは持っていた。
父と母はどちらも働いていて、至って普通の夫婦だったし、三つ上の兄がいるのだけれど大学卒業と共にそこそこしっかりした会社に入社して職場でしっかりとした女性と出会い今では1児の父親をしている。
私はお世辞でも美人といえるタイプでもないし、流行にも関心がなく、ファッションにも興味がほとんどないのだけれど、不潔と思われない程度には身なりを気をつけてはいるし、これといって取り柄はないけれど大体いつも恋人になってくれる人はいた。けれど三十を過ぎて尚、家庭を持てそうな傾向は微塵も感じられない。あまり関心がないというのもある。
時折、人々はありのままとか、あるがままとか、意図せずに成った姿や何かしらの影響をほとんど受けていない自分自身や他人の姿を強く肯定しようとする流行を起こす。私は否定する訳ではないのだけれどその度に違和感を感じつつも話を適当に合わせて流れる様に生きていた。
何故そんな話を持ち出したかというと半年ほど前、職場に入った新アルバイトさんが中々環境に馴染めず仕事自体は覚えているのだけれど、要領よくこなせていないと上司に指摘され続けていて、僕はここではやっていけないかもしれないと仲良くなった同僚と私達がお酒を飲む席で頭を抱えながら不安をいつまでも溢し続けていたのでとりあえず、人には自分に合った物事の乗り越え方があるじゃない。と私はいい、もう一人の同僚がありのままでいいんだよ。気にするな。と声をかけ、今日はとにかく飲もうと賑やかしてその日は楽しくお喋りをして帰ったのだけれど、よくよく考えてみたらあの時私と同僚がかけた言葉は、この上なく無責任というか、少しも新人アルバイトの子の心は汲めていなかった気がするなとまだ熱が篭る空虚な部屋の壁を見つめながら思ったからである。かといってどうこう今更考えられるほど思い入れもないし、暑過ぎて思考は巡らない。
私は私の体温を維持するので精一杯だし、こんなにも暑いのだから意識を保つのにいっぱいいっぱいなのだ。
決して優れてはいないが、頑張っていると思う。
父も母も三十を過ぎたというのに、いつまで工場のパートを続けながら適当に好きな様に生きているんだ。そろそろ家庭とか。なんて色々云うのだけれど、はっきり言ってそんな事に気持ちは向かないし多分私の意識はこの肉体と命が尽きる瞬間までしか認識できないのだろうし、申し訳ない気もするけれど気楽にふらふらと生涯を歩ませてほしい。
そう、職場の同僚の彼となんとなくもう二年付き合っているのだけれど、きっと彼も特に関係性を変える気もないと思うし。
何もかもが熱を帯びた、七月の明るい夜空を漂う雲の様に。
私しか知らない私も、私が知らない私も。
濃くなったり薄くなったりしながら、誰かに求められる事も拒絶される事もなく。
そうだ、涼しくなったら誰も知らない何処かへ旅にでも出よう。
風のない夜
生ぬるく濃くなる空に呑まれ、月と星の影に潜む。
求めらねぬもの スケッチ下書き - 壱 完