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「コロニアル建築」について調べていたら、「東南アジアの植民地史」が気になって、気付いたら「日本が植民地にならなかった理由」、「識字率」までたどり着いていたnote。

今回のnoteはお勉強っぽい内容です。自分が興味があって、ベトナムのハノイで旅行しながら色々読んでいた内容をみなさんともせっかくだから共有してみようと思ってサクッと、ペタペタ貼り付けながら作ってみました。

朝起きて身支度を軽くしてから、宿のカフェスペースで1時間半くらい読んでいた内容を30分くらいでまとめるという試みで、かなりの荒業にはなりますが、気になる部分だけでも掻い摘んで楽しく読んでもらえればと思います!

情報量が多い、それは百も承知です。9000文字くらいあります。ほぼコピペですが、自分なりにわかりやすく整理はしてみたつもりなので、ほんとに興味のある部分だけ是非!

今回の体裁のnoteは初めてになるので、是非感想もお待ちしています。もし需要があるなら、簡単に出来るのでこれからもやってみようかなと。


コロニアル建築

コロニアル建築
植民地様式の意で,植民地時代の建築様式
西洋諸国が植民地地域に本国の建築様式を模して建てた建築様式
その土地の材料や風土と母国の建築様式の結合に特色がある。
社会関係の非対称性が明白に表れる

アメリカ

アメリカ
17世紀初頭〜18世紀末
正面にポーチがつき、大きな窓やベランダがある建物が特徴アメリカでは主に木造で、板を横に張った壁が特徴的

地域によってイギリス式,フランス式,ドイツ式などに大別される。
・イギリス式:ニューイングランドを中心
・フランス式:ニューオーリンズやミシシッピ川流域地方
・ドイツ式:デラウェア川一帯
・スペイン式:フロリダ南西部、カリフォルニアがその中心

東南アジア

東南アジア
イギリスやオランダなどの植民地が多い

ヨーロッパ各国の植民地だった時代、ヨーロッパから移民といっしょに渡って来た文化や建築・インテリアが、それぞれの国の文化や風土と融合して生まれたスタイルも「コロニアルスタイル」

例)アジアのリゾート地
籐の椅子などアジアンテイストをふんだんに盛り込んだデザイン
これも「コロニアルスタイル」


日本

日本
幕末・明治初期に外国人が建設した住宅
グラバー邸など、周囲にベランダを廻らせた西洋館が典型的
長崎や神戸などの外国人居留地
日本の植民地だったアジア諸国風の涼しげなインテリアもまた「コロニアルデザイン・スタイル」

東南アジアの植民地

※生成 AI による情報

東南アジア
オランダ、スペイン、イギリス、フランスが植民地として分割

東南アジアの植民地化
19世紀後半にイギリスとフランスが争って獲得しようとしたことがきっかけ

支配者であるヨーロッパ人が先住民を搾取する植民地社会

複合社会
ヨーロッパ人と先住民の間に中国、インド人などからなる社会層が存在

英仏の歴史

イギリス
マレー半島のペナン・シンガポール・マラッカを獲得

1826年
海峡植民地を成立

1895年
海峡植民地に領土を加えてマレー連合州を成立

植民地:ビルマ(ミャンマー)、マラヤ
保護領:ブルネイ、サバ、サラワク

フランス
フランス領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)

宗主国と独立国

オランダ:インドネシア
イギリス:マレーシア・シンガポール
アメリカ:フィリピン
フランス:仏領インドシナ
日本:韓国、台湾…(このnoteの「日本の植民地」参照)


イギリスの植民地史

https://www.try-it.jp/chapters-11894/lessons-11901/point-2/

プチ年表

1858年
インド帝国と呼ばれる植民地を建設

1840年
アヘン戦争
イギリスは中国への進出を強めた
インドと中国とを接続するために 東南アジアを通る海上ルートを確保したかった

東南アジアの中でもマレー半島やミャンマー 
海上ルートの途中で立ち寄るのに適した中継地点だった

イギリスはマレー半島とミャンマーに進出
マレー半島のペナン・シンガポール・マラッカを獲得

1826年
海峡植民地成立
上の3つの地域(マレー半島のペナン・シンガポール・マラッカ)を合わせて。

1895年
マレー連合州(現在のマレーシアの母体)成立

海峡植民地に領土を付け加える形
マレー連合州の産業と労働力
 錫の開発:中国出身移民の華僑
ゴムのプランテーション:インド出身移民の印僑


東南アジアでの植民地支配

東南アジアでの 植民地国家建設から見えること 
政策研究大学院大学 鬼丸 武士 

https://isgs.kyushu-u.ac.jp/~isgs_seminar/file/Onimaru%20PPT%20201312.pdf

どの国がどの国を?

 • 16世紀 
スペインによるフィリピン

 • 17世紀 
オランダ(VOC)によるインドネシア

 • 19世紀
 イギリス(シンガポール、マレーシア、ブルネイ、ミャンマー)
フランス(ヴェトナム、カンボジア、ラオス)

 • 20世紀 
アメリカによるフィリピン

19世紀半ばまでの東南アジア地域での植民地国家建設
主に「都市」を中心としたもの 
マニラ、バタヴィア、シンガポールを中心にそこから統治が広がっていく 

19世紀:植民地抵抗運動

19世紀末の植民地の大きな変化
 (1) 開発の進展(交易拠点から開発へ) 
 (2) 分割の激化(特に大陸部) 
 (3) 植民地抵抗運動の高まりと、統治の正当化の必要性

植民地抵抗運動の原因
•西洋教育を受けた現地人エリートの登場 
•ナショナリズム、共産主義の浸透
•中国での革命運動の進展 
•近代化(日本)

統治の正当性をいかに確保するのか  
•住民福祉や医療・衛生、教育などの拡充 
•政治的権利の拡大  
•望ましくない政治勢力・運動の取り締まり 

植民地国家の変容 
• 19世紀末からの変化を受けて、植民地国家の行政領域は拡大

まとめ
•東南アジア地域の国家の原型は、19世紀以降の植民地国家建設
•この植民地国家建設のプロセスは一様ではない
•19世紀末から20世紀初頭にかけて直面した課題への対処によって、行政領域が拡大
•19世紀末からの変化もまた、宗主国や植民地化された時期などによって異なる 


東南アジア植民地化の特色

きっかけ

16世紀初め〜
香辛料を求めて東南アジア海域に来航したヨーロッパ人
初め海港に設けた商館を拠点とする貿易活動に従事

やがてより多くの産物を入手
貿易を独占するため先住民の支配をめざすように

19世紀
入り本国における産業革命が進む
原料供給地と製品市場の必要が増した
各国はきそって領土獲得と植民地経営に乗りだした

植民地社会の出現
支配者であるごく少数のヨーロッパ人(官吏・軍人・資本家など)が大多数の先住民を搾取

先住民、華僑、印僑

先住民
コーヒー・砂糖・茶・ゴムなどの輸出用の作物の栽培
変動の大きな世界経済と直接結びつけられ、不安定な生活に追いやられた

華僑・印僑
彼らは錫すず鉱山の労働者や輸出作物のプランテーション労働者として、また小売業・仲介業・金貸しといった商業活動の担い手として移住してきた者
中には経済力を蓄えるものも現れた:特に華僑

華僑(華人)
今日のシンガポールでは人口の76.0%、マレーシアでは25.6%を占める
その他の国では人口比はこれに比べはるかに小さいが、経済的には強い力を持つ
東南アジア諸国では「華僑に対する民族的反感」が暴動などのかたちで爆発することも

伝統的な農村社会は崩壊
植民地経営の中心としての都市
経済的に発展をとげ、農村からの人口流入もあり膨張
植民地経営にともないヨーロッパの技術や思想が伝えられた
都市を中心に近代化進行
ヨーロッパ的教養を身につけた知識人階層もしだいに形成
初期の民族運動をになったのは彼ら

ヨーロッパ諸国
先住民分断策の採用
植民地支配を安定させるため旧支配者の一部を温存
イギリスがインド支配にあたって藩王国を残したのと同じ政策


日本の植民地

■台湾

下関条約により1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)年にかけて統治
日本統治時代の台湾は、大日本帝国(外地・台湾)
正式に日本の領土となっていた

台湾統治時代の行政機構=台湾総督府

歴代の台湾総督
樺山資紀、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎、佐久間左馬太、 安東貞美、明石元二郎、田健治郎、内田嘉吉、伊沢多喜男、上山満之進、川村竹治、石塚英蔵、太田政弘、南弘、中川健蔵、小林躋造、 長谷川清、安藤利吉

台湾総督府
行政・司法・立法・軍事などの権限を持ち、台湾の教育・産業・インフラ(台湾総督府鉄道、基隆港、高雄港、烏山頭ダム)などの開発を行った

■朝鮮

日韓併合条約により1910年(明治43年)から1945年(昭和20年)年にかけて
当時の大韓帝国領を日本に統治されていました。

日本統治時代の朝鮮
大日本帝国(外地・朝鮮)として正式に日本の領土となっていた

朝鮮統治時代の行政機構
朝鮮総督府

歴代の朝鮮総督
寺內正毅、長谷川好道、齋藤實、山梨半造、齋藤實、 宇垣一成、南次郎、小磯國昭、阿部信行がいます。

朝鮮統治時代
被差別民とされていた白丁などの身分開放、日本語やハングルの教育、朝鮮総督府鉄道や道路やダムなどのインフラ構築などを行った

■樺太(南樺太)

北緯50度線以南の樺太(南樺太・サハリン)はポーツマス条約により、1905年から1945年にかけて大日本帝国の領土だった

樺太における日本の行政機関
樺太民政署、樺太庁
1943年4月1日には樺太は大日本帝国の内地に編入されます。

歴代の樺太庁長官
楠瀬幸彦、床次竹二郎、平岡定太郎、岡田文次、昌谷彰、永井金次郎、昌谷彰、豊田勝蔵、喜多孝治、 縣忍、岸本正雄、今村武志、棟居俊一、小河正儀、大津敏男

第二次世界大戦後の樺太
ソビエト連邦及びロシア連邦が実効支配
当時のソビエト連邦がサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、 南樺太は帰属未定地

■南洋諸島・南洋群島

現在のミクロネシア
北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦
1919年〜1945年
ヴェルサイユ条約でのドイツの全海外領土・海外植民地没収
→国際連盟によって大日本帝国が委任統治を託されていた領地

日本の行政機関
南洋庁

歴代の南洋庁長官
手塚敏郎、横田郷助、 堀口満貞、田原和男、松田正之、林寿男、北島謙次郎、近藤駿介、細萱戊子郎

■関東州

現在の旅順、大連
ポーツマス条約により、清朝からの租借地の権利をロシアから日本が引き継ぐ形
1905〜1945年
大日本帝国の領土となっていた

1915年
中華民国との条約により租借期限を1997年まで延長
後の満州国の一部とみなされるように
日本のポツダム宣言受諾により関東州の地域は中華民国に復帰

日本の行政機関
関東都督府、関東軍、関東庁、関東州庁

■南満州鉄道付属地

満鉄附属地
ポーツマス条約
ロシア帝国が運営していた東清鉄道の南満州支線の鉄道付属地を継承
1905年〜1945年にかけて大日本帝国の領土となっていた
土地の所有権の他に行政権も継承
大日本帝国は行政の運営やインフラの構築などを行った

日本が植民地にならなかった理由①

文明の高い国に植民地化されることにより、その地域にあった文化さえも奪われることも。

日本が独自の文化を保ち続けている理由の一つ
一度も植民地化されていないからなのかも

世界的に見ると、有色人種の国で一度も植民地化されていない国家は大変珍しい

アジアでは日本の他
タイ、ネパール、ブータンしかない

それらの国が植民地化されなかった理由
・タイ:フランスとイギリスと上手く外交したため
・ネパールとブータン:欧米諸国にとって植民地化するメリットがなかった

日本が植民地化される危機は何回あった?
3回または4回という説が一般的

①元寇
②大航海時代(日本の戦国時代)
③幕末~明治維新頃
④第二次世界大戦後

①元寇(蒙古襲来)

鎌倉時代のなかば、1274年(文永11)の 「文永の役」と1281年(弘安4)「弘安の役」の2回にわたり行われた蒙古 (元)の日本侵略。

②黒船来航 

1853年6月3日
アメリカの東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが率いる軍艦4隻が神奈川県浦賀沖に来航した事件。理由:①アメリカと清の貿易中継基地として日本の港が欲しかった。②捕鯨基地としても日本が欲しかった。ペリーは開国を求めて来航し、開国を要求する大統領の国書を幕府に受け取らせた。幕府はペリーの圧力に負け、一度はペリーを退去させ、翌年まで回答を延期させた。

③明治維新

 1868年
幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成。
幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革。
江戸時代末期から明治時代初期の日本国内で行われた。
政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行。 
※Wikipediaより

④第二次世界大戦

1939〜1945年
1939年9月の英独戦争に始まり、1941年6月の独ソ戦争、同年12月の太平洋戦争を経て、1945年5月ドイツの、同年8月日本の降伏で終わる戦争。

日本が植民地にならなかった理由

1. 地理的な条件

蒙古襲来を神風が防いでくれたという定説は有名
大国と陸続きでない

大航海時代
日本はヨーロッパから遠い上、既に植民地化されていた東南アジアからもそれなりに遠い
欧米諸国にとっては征服軍を送るのも容易ではなかった
日本沿岸の海は交通の要所ではなかった
費用対効果を考えても侵略するメリットがなかった

幕末にペリーが開国を要求してきた目的
アメリカの貿易相手国だった中国へ行く際に、日本の港で物資を補給できる点で好都合
日米友好条約で下田と函館を開港させると、それ以上の要求はして来なかった
アメリカが台頭するまで、日本の海や港は欧米諸国にとってあまり魅力的ではなかった

2. 高度な武装

幕末の薩英戦争
日本の武力はイギリスに歯が立たず、ペリー来航の際にも黒船の軍備の高さに怯えることに

大航海時代
武士(当時の日本国民の約3%)の存在がヨーロッパ諸国からの侵略を防いでいた
腰に長い刀を挿して歩く姿は来日したヨーロッパ人を驚かせるのに十分だった
日々訓練を積んでいる姿→征服可能な国家には思えなかった?

3.キリスト教を禁止

南米やフィリピンの例
スペインやポルトガルは他国を侵略する前にキリスト教を布教している
布教の目的
国民や権力者の思想を宗教によってコントロール
→植民地化する際に統治しやすい地域にする

豊臣秀吉はおそらくこの陰謀を見抜いてバテレン禁止令を出した
江戸幕府は一度それを緩和するが、結局1612年にキリスト教禁止令発布

4.高い技術力

1543年
初めて銃を手に入れた日本人
種子島に漂着したポルトガル人から2丁の火縄銃を購入
その後すぐに火縄銃の国内製造に成功
その後たった十年で全国に普及させた

植民地支配の手口
隣接する仲の悪い国同士の片方に肩入れして武器の提供→両国に戦争させる

武器の提供があった国家は戦争に勝つ
新しく誕生した政権はあらゆる面において本国に依存する羽目に
→植民地化

日本の場合
そもそも陸上で隣接する国がない
火縄銃のような当時の高度な武器をあっという間に国内製造できてしまった
この方法での支配は通用しなかった

5.文化・教育レベルの高さ

江戸時代の日本の識字率は世界一だった
武士においてはほぼ100%、全国平均は約60%
江戸の子ども達は寺子屋で読み書きや演算を習うことで良い奉公先に行くことが出来た
率先して勉学に励んでいた
このため一般大衆でさえ教育レベルが高かった
日本の教育レベルの高さにはザビエルやペリーも驚いたらしい

教養の高い民衆が暮らす国は植民地化しても統治が難しい
理由:仮に武力で植民地化に成功しても民衆の反乱が起こる可能性が高いから

明治時代以降に西洋の文明を目を見張る速さで吸収した理由
日本人が既に教育の基盤を持っていたから?

服装や建物などの見た目が西洋化
日本文化が消えることへの懸念もあった
日本人の思考のベースに儒教や武士道があった
だから文化が完全に損なわれることもなかった

※おまけ:運とタイミング

元々フビライハンは日本を侵略しようとは思っていなかったのに、鎌倉幕府がその意図を読み違えて無礼な返答をしたことが発端となり、元寇に至ったという説

鎌倉時代
武士が強かったので神風がなくても蒙古襲来に打ち勝てた?
幕府の外交の失敗をカバーしたのはやはりタイミングの良い台風

戦国時代
スペインは日本の植民地化を検討していた
先に日本と外交を始めたオランダやポルトガルがそれを豊臣秀吉に密告?
当時のヨーロッパ諸国は決してお互いに仲が良かった訳ではない
最初に日本に流れ着いたのがスペインでなくて運が良かったのかも

ペリーやハリスの来航
大きな危機だった

明治維新の頃
アメリカの南北戦争が起こった
自国の情勢が不安定なアメリカは日本の植民地化に手が回らず

第二次世界大戦後
アメリカによる占領(占領と植民地化は異なる)
この頃は既に欧米諸国が植民地化が倫理的に正しくないと気付き始めていた
一時的な占領のみで済んだ

日本が植民地にならなかった理由②

2014/7/8 03:06

19世紀
欧米列強はアジア諸国を次々と植民地化
日本は絶体絶命の危機に
独立を守るために戦った幕末の英雄たちの物語は、繰り返し語られてきた。

元国土交通官僚の作家、竹村公太郎
日本の地形と気候という視点から、もう一つの理由を挙げる。

豊富な鉱物資源や広大な土地、奴隷といった、欧米人の欲望をかき立てるものが、見当たらない。

日本列島には、「欧米人を恐怖させる自然が嫌というほどあった」。

日米和親条約締結後の5年間だけでも、大地震が相次ぎ、コレラが蔓延、江戸市中は大水害に見舞われている(『日本史の謎は「地形」で解ける 文明・文化篇』PHP文庫)

▼元寇

13世紀
日本に襲来したモンゴル軍を追い払ったのも、神風と呼ばれる暴風雨だった。
だからといって日本列島の過酷な運命に、感謝する気持ちにはとてもなれない。
まして自然の猛威は、近年の地球環境の変化を受けて、荒々しさを増している。

▼台風

列島の南海上を北上中の台風8号は、猛烈な風と大雨を伴う、7月としては過去最大級の台風だという。しかも梅雨前線の活発化と、速度の遅さという悪条件が重なっている。崖崩れや浸水の被害が、各地で最小限にとどまるよう祈るばかりである。

▼日本国旗の豆知識

太陽を図柄としている日本の国旗
「星」や「月」のデザインが目立つ世界の国旗のなかで、実は珍しい存在

熱帯の人たち
夜になってから活発に活動する
太陽は、「苦しみと死の象徴」

日本人
古来、太陽の下で働くことこそ、無上の喜びとしてきた。

識字率

識字
文字の読み書きができること。

成人のほぼ100%の識字率を誇る私たち日本人
世界で文字の読み書きのできない非識字者は、約7 億7,500 万人。
これは世界人口(15 歳以上) の6分の1
そのうち約3分の2は女性

国際識字デー

国際識字デー
1965(昭和40)年9月8日から、イランで開催された「テヘラン会議」で、当時の国王が各国の軍事費の一日分を、非識字者のための識字基金に拠出するよう提案したのがきっかけ。会議の後に、米国の当時のジョンソン大統領(当時)が米国議会において、「テヘラン会議」を忘れないため、また、ユネスコの識字教育への貢献に感謝の意を表して、9月8日を「国際識字デー」に制定するように呼びかけた

日本の識字率は数百年にわたって世界一
江戸時代幕末期にはすでに世界一だったといわれている
武士はほぼ100%読み書きができていたし、庶民層でも男子50%前後、読み書きができた

同時代の英国の下層庶民
ロンドンでも字が読める子どもは10%未満

日本の識字率


江戸時代

江戸時代(1603年 – 1868年)
慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍となり江戸(現在の東京)に幕府 を開いてから、慶応4年(1868年)に崩壊するまでの約260年間。

幕末期(1853 –1868年)
※黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1868年)を指すのが一般的

就学率は80%程度
武士の子どもだけでなく一般庶民の子どもも「読み、書き、そろばん」を学んでいた

日本人の教育熱心さ
義務教育ではなく自主的に運営された寺子屋に庶民の子どもがこぞって修学していた

庶民の間で人気の高いさまざまな出版物の出現、新聞の元祖「かわらばん」の存在
読書熱は想像以上に高かった

鎌倉・室町時代

鎌倉時代〜江戸時代
・鎌倉時代(1180〜1336年)
・室町時代(1336〜1568年)
・安土桃山時代(1568〜1600年)
※室町時代は鎌倉時代から発展した時代

鎌倉時代
源頼朝が武家政権を樹立した時代
鎌倉幕府は、1333年、新田義貞によって滅ぼされた
→足利尊氏が京都に室町幕府を開いた

室町時代
文化的に武家と公家が融合。「北山文化」
応仁の乱が始まるまでは比較的穏やか
大陸からの文化や仏教、公家文化を取り入れて様々な文化が花開いた

日本に訪れる外国人宣教師などの言葉
すでに識字率の高かったという指摘があった

明治時代

明治維新(1868年)
幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成。
幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革。
江戸時代末期から明治時代初期の日本国内で行われた。
政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行。

※Wikipediaより

識字率の調査が地域ごとに行われた
通商、交通の要所などで高く、それ以外は極端に低いなど地域格差が認められた
全国平均:男子が50~60%、女子が30%

日本語ローマ字化撤回

第二次大戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)
日本語をローマ字表記にしようとする計画
漢字が多く覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている?

1948(昭和23)年
日本初の全国調査「日本人の読み書き能力調査」を実施
結果:漢字の読み書きができない者は2.1%

日本人の識字率が非常に高いことが証明された
日本語のローマ字化は撤回された

さいごに

いかがでしたか?!すでにあなたが知っている知識で補足したくなったことなどがあればコメントで教えていただけると、僕も非常に勉強になるし、なにより反応いただけるととても嬉しいです。

最後まで読んでくださってありがとうございます!
また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋

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笠井康弘
僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。