他者のイメージを演じてしまう全ての人へ
いきぐるしい。しばらくずっと。
人は常に様々な感情や思考、主張の中でバランスを取りながら生活をしている。その中で多くの人は他人から理解されやすいように他人の求める様々なイメージを演じている様な気がする。
例えば、学生時代によく聞くような、お笑いキャラ、真面目キャラ、モテキャラなどに始まる、キャラ付け。
外キャラ、内キャラなんて言葉はもうとっくに死語だろうけれど、自らを他者から分かりやすいようなイメージ付けをして演じている、いや演じさせられているのではないか。
気付けば私はもうこの思考から逃れる事が出来なくなっていた。
現在の私は、現実社会で関わる多くの人に「明るく」「前向きな」青年であるとイメージをされていると推考する。そして実際、そのイメージに沿うような行動を意識の有無にかかわらず、行っている側面がある。
しかし、至極当然のことであるがそれらの性質が私のすべてではない。「暗く」「後ろ向き」な部分ももちろんあるし、それ以外のすべての可能性を保持している。ただどうやら、人前で負の感情、陰の部分を晒すことは「晒す側」も「晒られる側」もあまり気分の良いものではないらしい。
日常やいわゆる社会で私の行動、発言に期待されるのは「明るく」「前向き」なイメージに基づくものである。つまりこれらのために「私」はある程度「イメージの私」を演じる必要が生じてくる。
そんなことはあなたの自惚れや気にしすぎだ、あるいは自業自得である、と思われるかもしれないが、自業自得ではあっても気にし過ぎではないように感じる。
おそらく私が日常生活で何も考えずに本来の私を晒した場合には、少なからずの「損」が生じるであろう。つまり私はコミュニケーションの延長線上で「周り(の人)のため」と「私自身のため」に「イメージの私」を演じているわけである。
さて、ここまでの内容が、私が一般に世の言う社会人として機能し始めてから1年目に感じていた苦悩である。そして同時に、この悩みがいかに平凡で陳腐なものであるかもお分かりいただけたと思う。このような悩みは現代の日本において様々な人が抱えているありふれた悩みなのではないだろうか。
笑顔が素敵な営業マン、寡黙な研究者、元気な高校生、フッカル大学生、会社に尽くす企業人、努力を惜しまぬ青年、正しき父、優しき母、良い人、良い人間、良い大人。
世が円滑に機能するために振りかざされた「協調」や「成長」という名の、あたかも真理の正義として設定された経典に則って、各々に与えられた「正しい」イメージ。
その集団や価値観にうまく混ざり切れない、でも抗う精神も保てないからひとまず「演じる」ことで世に紛れてやり過ごすしかない。そんな感覚。しかしふとした瞬間、沸々と自己の中から込み上げてくる感情に、身を焼かれそうにもなる。己は馬鹿か?いや、良いって何よ? その尺度は?それって結局全部他人の理想、妄想、幻想じゃない?
正気を保ってそうしている人たちは大いに健康で結構なのですけれど、上記の陳腐な悩みに少しでも共感してもらえた人は、きっとそうではないのですよね?
ではここで、少し冷静になって考えてみて欲しいのです。それって何のため、だれのために演じてるの?あなたが本当にやりたいことは何?なりたいものは何?目指している場所はどこ?
・・・
・・・
・・・そんなものないって? 私も同じよ。
慣れてしまった演技を完全にやめることは難しいし、演技をしたことのある人間は他人の演技を疑う。
では、この悩みに解決方法はあるのだろうか?
おそらく多くの人は月日の中で折り合いを付けていくか、そのイメージに沿った自分に同期していく道を歩むのだろう。要は時間の経過による「慣れ」だ。私も最近では「演じる」とかそんな難しいことは考えなくなった。
いや、「慣れる」というより「変容する」といったほうが正しいのかもしれない。少しずつ少しずつ、溶けて混ざり合って、いずれ同じになっていくような、そんな感覚。でもそれはそれでよいのかもしれないとも思っている。ひどく恐ろしく、少し悲しいけれど。
それでも今、こんなことを書いているという事は、きっと私の本質や源流みたいなものは大きく変えることのできないという、逆の視点から見た絶望のようなものも感じながら。
今回はせっかくなのでそのような悩みと同期できなかった場合、変容しきれなかった、あるいはその真っ只中で、不安や不満に苛まれた際の対処法について考えてみたい。いつかどこかの誰かの、同様の苦悩の軽減、もしくは改善を願って。
イカれた世界で正気を保つための方法
イってしまっているのは世か私か。おそらく後者が濃厚だが、差し当って必要なのは発散相手と発散場所の確保だ。
まずは発散相手について。友人など気の置けない間柄の人間に会って、話を聞いてもらうということはすぐに思い浮かぶ。だが私の場合、現在様々な都合により直接気軽に会える友人が極端に少ない。(社会的性質というよりは、地理的条件の問題が大きい)
まあ、そんな私の話は置いておいて、とにかく近くに愚痴をこぼせる友人や知人、家族などがいるのであれば、うまい飯や酒でも飲みながら、演技も役柄も脱ぎ捨てて自由に語らうのが一番の良薬であろう。
自分のイメージや演技について悩んでいるのだから、それを友人に打ち明けて相談するなり愚痴をこぼすなりすればいい。そうすればそこが発散場所、避難地点としての機能も持ち合わせ、他者の理想とする自分に押しつぶされそうなとき、避難場所として自己決壊の予防線を張ることが出来るだろう。
そうして多くの人は己を保ち、バランスをとっているに違いない。これもひどく陳腐な話であるが。
では、例えば友人の不足や、一身上の都合などでそれらが難しい場合にはどうすればよいか?困ったことに、この友人や家族こそが演技相手であるケースも少なくない。その場合には発散場所の確保を推奨したい。
ここでいう発散場所の確保とは、単に所属するコミュニティーやソーシャルメディア上でのポジショニング、あるいは物理的な行動によって起こる事象への期待ではない。私が最も声高に謳いたいのは、それらを選んだという自己の意思決定に対する明確な認識だ。自分が選んで実行したという事を明確に自覚しなけば、真の発散場所の確保にはつながらない。(と言いつつ、内心この主張が単なる精神論になってしまいそうでひやひやしている。)
発散場所自体は言ってしまえばなんだって構わないと思う。例えばSNSへの投稿でも構わないし、スマホメモ欄への書きなぐりや、ノートへ罵詈雑言をしたためる事。あるいは放課後サッカー教室のコーチであったり、休日の釣り、お菓子作り、カフェ巡り、メディア漁り、好きな人とのランデブー、その他全ての行動(公序良俗の範囲内、もしくはそれが及ばぬ場所での行動であれば)なんだって良い。仕事が好きな人はそれでもOK。
大切なのは、あなたがあなたのために行動するその全てをあなたが受容すること。認識すること。他の誰でもないあなたがあなたのために。
注意したいのは、発散場所を確保するうえで、「気持ち良さ」を当てにしすぎてはいけないという事。いや、正確にはあてにしても良いのだけれど、一時的な気持のよさが先行してしまう依存先というのは、得てしてさらなる悪化を招く場合が多い。酒や恋人、芥子の樹脂のように。
それにさえ注意すれば、後は私の自由だ。なんだかやる気が出ないからベットでYouTubeのおすすめを見てたら気付けばもう暗くなってしまった。なんて、さも何もしていない私が怠惰だという論調で言い寄ってくる輩もいるけれど、何か問題でもございますでしょうか?それでいいのだよ。怠惰大変結構、上等じゃないか。
どうせ世の休みの日はこう行動しろだの、この流行を追えだの、このスポットが熱いだの、こうしたら素敵な人生が、有意義な時間が! などといった情報に、好意なんてものはほとんど存在していない。
あんなもの平たく言えば「経済を回せ」の一言だ。あなたは自己を癒すために、極力体力と財を消費せずに、娯楽に時間を割くという判断を下したのだ。
いいじゃんいいじゃん、明日もやろうよ! え、?明日は仕事だって?・・それは残念ね、資料の準備は大丈夫?
なんて、たまに顔を出す現実の陰にげんなりしながら。それでも自己を保つ唯一の方法は、自分が下した決断に自分が責任を持つことなんだと思う。
なんだか自己啓発なんかで聞きそうな文言になってきたけれど、これだけは信じて欲しい。私、あの手の 「意識高くあれ」みたいな押し売り、大嫌いなの。 異論はめちゃくちゃ認めます。あくまで1個人の意見です。
とにかく、この認識は自分を自分でコントロールする上でとても重要だと思っている。私が伝えたいのは自分の意思決定を意識するという事だけ、その先の行動に何一つ文句をつける気なんて微塵も木っ端もない。
ただ、この意思決定の権利が自分の手元にあるという事を認識できないと、いつまで経っても、誰かもわからない誰かのせいで、なんだかすっきりしない日常を歩みながら、何が原因かも分からないまま、唯々セブン&アイホールディングスに養殖される人生になるんじゃないかと思うの。
眠いから寝る。一日中寝る。自分の意志で。全然おっけい。食べたいからウーバー某で大量購入。あら、食べ残してるじゃないの。とっても素敵ね。
私は去年も一昨年も、酒とゲームとYouTubeでごまかしてきたわ。スト缶をスト缶で割って飲んだりしながら。酒を浴びる用意はいいか、ブラザー?
とてもしょうもなく感じるかしら?でも、きっとこういう事を繰り返していくと、そのうち宿り始めるのよ、「イメージを演じる私」にも、ぬぐい切れないほどの「私」が。
それをどう手なずけるのかはさらにあなた次第。飼いならすもよし、破り捨てるもよし。殴り飛ばそうとして逆にぼこぼこにされる事もあるよ。知らんけど。
でも1つだけ、人は自分の思う通りに物事が進んでいると思っている時が一番無防備。一度イメージしてしまったそれを人は簡単には超えることが出来ないんだって。どう?少しはわくわくしてきたかしら?
もう一つ忘れてはいけないのは逆もまたというお話。深淵を覗くとき、深淵もまた・・ というのは少し違うかもしれないけれど。でもそれもまた楽しそうじゃない? ちょっとめんどくさい? まあいいわ。
でも、きっとこの意識は、イメージに取り込まれそうになっているあなたが何かに返るため、もしくは変容するために少しだけ力を貸してくれると思うの。信じられないかもしれないけれど、ごく稀に虹の根元を掘り当てたり、宇宙の真理に触れたりするんだって。
さて、ここまでが発散相手と発散場所の確保について。
そして最後に伝えたいエッセンスは自分だけの秘密を持つということ。
慎ましく、しかし過激な秘密を。
要はオープンコミュニケーションでは決して記載できないような、攻撃性、醜悪さ、汚さ、怠惰、恥、怒り、欲望、理想、憧れ、愛、情熱、性、嫉妬、希望、憎悪、執念、、あるいはそれらのすべてを 消さずに、失わずに、持ち続けること。そしてそれらを隠し通すこと。
「俺がここから逃がしてやる」だなんてそんなことは到底言えないし、その責任も負えないけれど、その劇薬のようなあなたの秘密は、あなたがあなたを見失いかけたその時に、きっとあなたを燃やしてちゃんと消してくれる。そんな気がしてるの。その秘密に宿るあなたの意志は、間違いなくあなたのその核で、あなたそのものなの。
だから、その秘密だけは誰かに明け渡してはいけない。絶対に。
なんて言いながら、それらを共有できるなにかを信じて、切り裂かれて、それでも生きていくことしか出来ないのが私たちなのだと思うけれど。その張り裂けそうな内臓の焼ける痛みもあなたの、あなただけのものよ。謹んで享受しましょう。どう?そろそろ私も憎くなってきた?
ところでこんな考え方をしてしまっているから、私は陰が見える人が好き。人から見える場所に本当なんて無いのではないかと感じるから。暗さや冷たさの中にしか存在しないものがあると信じているから。
さあ、ここまでイメージを演じる人にメッセージを伝えてきたのだけど、残念ながら私もまだそのプレイヤーの1人なの。笑っちゃうよね。
明日はどうやって生きていきましょうか?いつかあなたとも秘密の探り合いができることを希望に。きっとその時、私はとても幸せでしょうね。
yasu
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