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救済のマルクス

 つらつら思うに、私は社会そのものがあまり好きじゃないんだな。
 正直のところ私にとっては自分の方が重要な問題であって、社会などはどうなっても構わない。せいぜい抑圧的にならんでくれと願うだけだ。
 私の青春はマルクス一色だったけど、そこから遠く離れて、ハイデガーに代表される哲学や現代思想に没入してしまったのは、この社会に対する嫌悪感によるものだ。
 時折、マルクスを読むこともあるが、共産主義社会の実現なんてどうでもいいと思ってしまうと読む気も失せてくる。
 共産主義が失敗に終わった今こそマルクスを読み返せ、などという類いの本もあるが、言い訳くさい。
 社会に対して何の関心も持てない私の心には響かない。
 そういえば自民党の総裁選より Lovebites の公演日程の方が気になっていたな。2025年は全国ツアーが予定されている。嬉しい。

 だけど哲学もまた無力である。
 「魂のことをする」(大江健三郎)ということで、私もマネをして魂に問いかけてみたんだけど、答えはなかった。
 そのことがようやく腑に落ちたのはスピノザと出会ったからだ。
 それによると、人間精神は神の生み出した諸観念によって構成されたものだ。マルクスが意識を社会関係の産物としたことと類似している。人間精神とか意識とは産出された結果であって、産出する原因ではない。
 だから問われるべきものは、魂つまり意識ではなく、それを生み出した原因としての社会関係なんだな。
 そうなると社会が好きか嫌いかなど言ってられない。自分の原因を探求する問題だからだ。
 実存の真理は、実存論的分析ではなく現実の社会を正確に把握することによって明らかにすべきであろう。実存論的にアプローチすると自己撞着に陥ってしまう。それはノエシスをノエマ的対象にしてしまうことだ。
 だから「魂のことをする」とは経済学をやることである。経済数学なんか読んでいると、オレとは関係ねえな、とつい思ってしまうが、そんなことはない。現実社会を解明することが自分の本質を知ることであり、数学はそのための強力な道具なのだ。

 どうせ私は暇乞いする年齢だから、マルクスの約束した社会が実現したとしても、それを見ることはできない。
 だが、真の救済は共産主義社会の実現ではなく、社会関係によって自分自身がどのように構成されたのかを知ることであり、それがスピノザの言う至福直観ではないだろうか。
 つまりマルクスを読むこと自体が救済なのだ。
 今なお資本論に魅力があるとしたら、それはマルクスが経済学を批判することによって、人間がどこからやってきて、どこへ行くのか、についてマルクスなりの回答を示しているからだ。
 何のために資本論を読むか、それは己を知るためだ。といえばスゲー内向きに聞こえるが、スピノザの至福直観と同じである。革命なんてとんでもない。エラい指導者に従うなんてマジ無理。

 スピノザもまた第三種の認識とは、表象知つまり自己意識に囚われることなく、冷徹に本質を直観することであり、それが最高の至福であるとしている。それ以外に生きる目的を立ててはいない。
 スピノザを理解することが至福なのではない、スピノザとともにスピノザ的主体として物事の本質を直観することが至福なのだ。 
 アルチュセールは単にスピノザを哲学的対象として捉えているに過ぎない。だから「資本論を読む」はマルクス経済学のスピノザ的実践ではないのだ。
 むしろラカンの方がスピノザ的主体である。スピノザと同様に破門された者でありながら、実際に精神分析を変革したからだ。
 同様のスピノザ的主体がマルクス経済学の分野において出現することを望む。それはスピノザの本質直観に導かれて数理マルクス経済学と動学的一般均衡理論を融合あるいは変革する者となるだろう。
 もちろん両者は労働価値と効用価値の根本的対立があるが、両者はともに価値概念の普遍性・客観性を前提している。経済学の根源的事象領域は価値の普遍性である。そこが哲学と異なる点だ。人間はたとえ主観的には価値を特殊と思っていても、実際の行動においては価値の普遍性を前提にしている。さもないと市場が成り立たない。
 カントは美的価値の普遍性を要請するだけで、論証はしていない。
 なんということだ、それをもってカント研究者は価値の普遍性を否定するのである。そこが現実の社会を捉えるうえで哲学には限界があると私が強く感じるところだ。

 「エチカ」の第三種の認識はプログラムであり、いくらそれを研究したところでプログラムに終わり、至福は得られず、私のようにブログでエラソーに放言するだけの老人ボケになるだけだ。
 重ねて言うがスピノザを理解することが至福なのではない。それは重要ではあるが、至福の前提であり出発点に過ぎない。
 スピノザを理解することに終始して、何の新しい発見も理論的創造もないとしたら、それが至福と言えるだろうか?
 どんな分野でもいい。経済学であれ精神分析であれ、哲学以外の理論的実践の徹底を通じて、結果に過ぎない自己の原因を新たに発見し直観することこそが真のスピノザ的至福なのだ。今ではそう確信している。
 ということで私も青春に戻った気分で遅ればせながらマルクスに本気で取り組むことにしよう。世の中のすべてのことが自分と無関係ではないことを解明しない限り、自己が虚妄であるという前提で取り組んでみよう。
 どこまで行けるか、bis in den Tod だ。

 すべてのものは吾にむかひて
 死ねといふ、
 わが水無月のなどかくはうつくしき。

伊藤静雄「水中花」

  お酒飲んでいます。

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