社会不安障害の背景と付き合い方
現在の私の仕事
私は、現在40代後半のごく一般的なサラリーマンです。俗にいう一流企業と言われる企業に勤めて23年目に入ります。現在は、いわゆる工場の物流という仕事を任され約5年目になります。はっきりいって重いものも持ちますし、肉体労働のきつさは半端ないです。建屋の中を周回する仲間もいる中で、私は建屋間を行き来する外回りの周回をしているので、夏・冬は特に外気温に左右され日々過酷な業務をこなしています。
それまではというと、1998年に入社以来、ずっと工場の何でも屋と呼ばれる総務事務の仕事を約16年間やってきました。現在とは全く畑違いの業務でした。
そう、5年前に物流に異動することになったのには、過去に大きな背景があるのです。そこについてフラッシュバックのように蘇ってきますが、更に過去の私の現況の基となった新卒時代の頃からの経緯とともに綴っていきたいと思います。
新卒入社1年目
さかのぼる事約26年、1995年の事です。私は大学の新卒で、いわゆるディーラーと呼ばれる自動車メーカーの営業に就職しました。当時は特にやりたいことがなく、車が好きだった為、車関係を扱う会社に就職したいという理由のみで受けたディーラーに内定を頂きました。当時は個人的に車を改造したりしていましたが、特に整備の専門学校を出たわけでもなく手に職がなかった為、営業としての配属となりました。今思えば、専門学校を出て整備の資格を取り車の整備に携わればよかったなと思っています。
過去の私に言いたい言葉 ⇒ ”やりたいことは明確にしておくべきだった”
特別コミュニケーションが得意ではない私にとって、まず初めの壁にぶちあたったのが新人研修のロールプレイングです。新人営業が、お客様と営業の立場になり様々なケースを想定して販売技術を身に付けるやつです。
今思うとその頃から体調の変化は出ていたように思います。社会人になって1年目、研修と実践を繰り返し先輩についてお客様に車を販売する手法を学ぶ。1年目は何とか手柄にしていただき、3か月に1台ほどのペースで年間4台ほどの受注を頂いたと記憶しています。
一人で販売するようになる2年目〜3年目
2年目〜3年目は、特に先輩社員もつかず一人で販売する事となり、更に月のノルマもついてまわりました。ノルマは毎月2台〜3台だったと思います。訪問販売はしていなかったので、来社して下さったお客様にいち早くついた営業マンがそのお客様の担当になっていました。
お客様につくが、2年目で毎月2台売れるはずもなく、ノルマ達成はほど遠い状況でした。少しづつお客様につくのが嫌な自分が見え隠れしてきます。
お客様が来場されても自ら行かずに、他の営業マンがつくのを見ている、待っている状態が続くようになってきました。今考えると、営業マンとしてせっかく来て下さったお客様から逃げているなんてとんでもないなと考えてしまいます。
精神的症状が身体に現れる
会社で歓送迎会があり、普段飲まないアルコールを少したしなんだ帰り、体調が急変します。コミュニケーションが好きでない私にとって、こういった歓送迎会も決して好きな場とは言えません。店から出て社員と歩いていると突然の動悸と強い不安感が襲いました。動悸といっても脈が乱れ完全に不整脈とわかる状態になりました。その時の怖さったら今まで経験した中でこのまま死んでしまうかもしれないと思う程怖く、
何も考えずに『救急車呼んで』と大きな声で叫んでいました。
夜間だったため救急車の中で不整脈を抑える注射を数本打たれ、そのまま一晩病院に泊まり気付いたら朝になっていました。両親も来ていて、「心配かけてごめん」と言ったのを覚えています。
その後、再度受診した時の結果は、『心房細動』という心臓が痙攣を起こした状態だったということでした。原因は何か聞くと、「若い人はあまりならないけど、ストレスが引き金になることもある。このまま様子を見て今後同じような事が起こらなければ心配ないですよ」という事でした。
その後も続く度々の動悸
翌日は休みを頂き、次に出社しお客様を見た際に再度違和感を感じました。心臓が度々ドクンとなるのです。そうなる度に不安と恐怖に襲われ、何とか仕事をこなしながらも少しづつ行動範囲は狭くなっていきました。自分の中でこのまま営業を続けていたら、ずっと同じ事を繰り返すことになると思うようになり退職を考え始めました。そしてついに入社から3年が経過する頃、退職を決意しました。約2年7か月程務めた会社を退職します。
当時、既に結婚しており、私本人もかなりの覚悟をもっての決断でした。
家族を持っている以上、養う義務がある、それが私へのプレッシャーでもあり、新しい就職活動への意気込みにもなりました
新たな就職活動〜現社への入社
3か月程、雇用保険をもらい体調管理も整えながら、ハローワークへ通う日々が始まりました。3か月程経った、翌年1998年3月に現在の会社の中途採用面接を受け内定を頂きました。面接の際はやはり緊張もあり、以前の動悸症状がありましたが、何とか落ち着きを取り戻すことができました。少しづつこの動悸症状にも体が慣れてきていたのだと思います。
これで入社が決まり、現社で何でも屋と言われる総務を担当することになります。こちらでの業務は、初めはPCでの書類作成などがメインとなり心の負担は小さく安心したのを覚えています。
昇格していく毎に強まる責任
企業に勤めていれば、平社員でも当然仕事の責任はついてまわります。が、平社員のうちは当然責任は上司に降りかかります。私も数年経った頃、昇格の際に部下付きの役職を任されるようになりました。遂に上司という立場になり責任を取るという側にまわりました。
上司ともなれば、部下の相談事も受けたり、それ以外に中間管理職という事で上下から板挟みになり様々な仕事案件が舞い込んできます。
仕事内容も会議の司会進行をしたりと、総務という立場上、仕切るという場面が多くなりました。そんな時です・・・・また以前の症状が再発します。
会議での司会進行の際に、急に頭の中が真っ白になり、自分が進行しなければ進まないというプレッシャーと、周囲からの視線が気になりパニック発作を発症しました。その場は何とかやり過ごすが、動悸は酷く、冷や汗は吹き出し恐怖を感じたのを覚えています。
今考えると小さな兆候は度々でていました。その時に看護師にしっかりと相談し対策を取っていれば手段はあったかもしれませんが、当時の私は症状が出ていること自体を話す事が恥ずかしいという思いがありました。
一応書かせて頂きますが、今は全くそういった恥ずかしいというような思いはありませんし、逆に少しの違和感も早めに相談すべきだと思っています。
長期休職〜リワークへ
2014年2月の事です。
看護師、産業医に相談し、精神科にかかることを決意します。
始めは精神科にかかることにすごく抵抗がありました。何というか、私が他の患者さんと同じ立場になってしまうという、今思うと何と失礼な気持ちだったことかと思います。その精神科で診断された病名は『社会不安障害』です。とても一般的な病気で、人前で話したり、責任が強くのしかかるような場面でとてつもなく緊張し、動悸と強い不安で押しつぶされそうな気持ちになります。
特に私の場合は、以前に心臓の「心房細動」を経験しているので、自分の中でまた同じことを繰り返すのではないかという不安もつきまといました。医者での投薬で大分落ち着きを取り戻した2014年6月頃、リワークという社会復帰を目指す為の支援学級を勧められました。
私が気にしていたのは、リワークへ通うとなると最低3か月は必要になり、尚且つ、通所手続きなどを含めると半年近くかかる事で、会社側にかなりの迷惑をお掛けすることになるという事でした。
それでも、会社の産業医、看護師と相談し、現状のまま度々休まれるよりは一旦しっかりと休んで、寛解に近い状態で返ってきて欲しいという言葉からリワークへ通う事を決意しました。
リワークでの経験
リワークには2014年9月〜11月まで通いました。
リワークでは、多くの友人ができました。やはり同じように苦しんだ経験の持ち主同志という安心感からか、とても話しやすい雰囲気もありました。
実践したことは、毎日生活リズムを安定させる為、活動記録をつけます。
また、様々な項目の授業がありましたが、印象的だったのは認知行動療法の授業とグループワークです。私の場合は、グループワークはあまり気乗りしませんでしたが、同じ仲間だと思うと自然と話している自分がいました。
私にとっては、とても過ごしやすい3か月間でした。
リワークの目的は、休職の原因となった症状やストレスの根源と、リワークのプログラムを通じて向き合うことで、仕事への復帰後の再休職や精神面の不調を防ぐことを目的としています
復職へ向けて
そんなプログラムを3か月受け、終わる頃にリワークでの成果発表という事で資料を作成し、会社へプレゼンするという最大の山場が待っていました。
11月に入ると資料作成を開始しました。自分はなぜ、今回の症状が出て、今後復職した際にはどのような対応をしていくのか、気を付けていく事は何か?
また、ストレスコーピングマップというものも作成し、体調の変化を段階別に分け、都度誰に相談するのかといった資料作成もしました。
12月中には会社側へ復職成果発表会として時間を頂き、緊張しながらも無事に発表することができました。改めて自分の周りには案外身近に相談する方々がいるんだ、という事を再認識したのを覚えています。
2015年1月から復職可という指示を受け、同じ総務課への配属でしばらくの間は残業なしということで復職を果たしました。
約1ヶ月かけて作成した資料は、今でも自宅の部屋にファイルし、しっかりと保管してあります。”同じ事を繰り返さないという自戒も込めて”
再度の長期休職
2016年リワーク卒業後2年が経過した頃、担当していた業務が滞り、多くの業務を一人で抱えていました。せっかくリワークで作成したストレスコーピングマップを活用できずに、相談せず再度再発を繰り返してしまいます。
今思うと何であの時、抱え込み、周囲に相談しなかったのか、後悔してもしきれません。また、会社へ3か月の休職届を出す事となります。
復職するには再度、今回の休職時の問題点と対策の提出が必要になります。今回は、リワークへ通っていないので全て一人で作成するしかありません。過去のリワークの資料を引っ張り出し、なぜだ?なぜだ?なぜだ?
自分を責めました。
でも今回の休職で新たにわかった事がありました。
私は、先の事を考えて不安になるけど、それは「先の事を考えて準備できるメリットでもある。」そして、仕事を抱え込んでしまう事はなぜか?
なぜなぜを何回も繰り返しました。
最終的にいきついた所は、『恥をかきたくない』という無意味なプライドが邪魔をしていることに気付きました。
更に気付いた事は、 【恥をかきたくない=失敗したくない】
【失敗したくない = 完璧主義である】
【完璧主義 ⇒ 最善主義へ】 最善主義:その時の最も良い方法を判断し、『それで良し』とする考え
再度の復職成果発表会では、上記の完璧主義から最善主義へ考え方を変える事と、小さな違和感の見逃しをなくし事前相談をしっかりするということを前面に出し、報告をしました。
会社側の判断
『しっかりと考え方を変え、対策をするというのはわかった。
但し、同じ職場で2回同じ事を繰り返させるわけにはいかない。
一度ルーティンの仕事である物流に異動し経験を積んできなさい。』
という、私にはある意味、死刑宣告のような回答でした。
すぐ様、頭に浮かんだ事は、肉体的に持つのか?
なぜ事務職から技術職へ異動になるのか?みんなどう思うだろう?
不覚にもまたここでも恥ずかしいという思いが出てしまいました。
冒頭の現在の私の仕事、という背景にはこのような流れがありました。
覚悟するしかない
会社から異動を指示されたら断る事はできず、もうやるしかありませんでした。あの異動の通告から約5年経ちますが相変わらず物流の仕事に携わっています。異動直後は肉体的に本当にきつかったのを忘れられません。
ただ、5年間続けてきた自分がいるというのは紛れもない事実であり、ここは自信を持って頑張ったと褒めて良いのだと思っています。
同じように鬱や、不安障害をお持ちの方へ
鬱や不安障害という病気は、完治というのは難しく、寛解(かんかい)という言葉が良く使われます。
寛解とは、「症状が一時的に軽くなったり、消えたりした状態であって、このまま治る可能性もある。場合によっては再発する可能性もある」ということです。
これを踏まえて、私は社会不安障害とは一生付き合っていくつもりで生活をしています。なので、いつも頓服薬は持ち歩いています。これでいいのではないでしょうか。
生まれ育った環境による考え方からくるもの、急激なストレスから発症するもの、様々な要素があります。
さいごに
一つこれだけは言っておきたいことがあります。
このような病は決して”恥ずかしいものではない”という事です。
ですので、私のように恥ずかしがって同じ繰り返しをして欲しくないのです。
少しでも違和感を感じたら、すぐに相談することが一番の最善策です。
長文になりましたが、私の一連の経験がお読みいただいた方々の一助となればこれ以上嬉しい事はありません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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