叱らず(怒らず)、教え諭すこと。
子供の頃、私はよく母に叱られた(怒られた)。言葉で叱られるだけならまだいいが、言葉よりも先に手が出る母だったので、常に母の様子を伺って叱られないようにしなくちゃ、とビクビクしていた子供だった。
しかしまた、そのビクビク怖がっている態度が母の気に障るのか、またそれで叱られ、手が飛んできた。
母の視点から見てみたら、男の子を育てるのは大変なことだったのかも知れない。周りの目をとても気にする母だったので、人様の前でちゃんとして欲しいという愛情として(ちゃんとするっていったい何だろう?)、私を叱り(怒り)、痛みという制裁を加えて躾けていたのだろうと思う。
一方、子供である私の視点からすると、いつしか母は恐怖の対象となっていった。子供から見る視点というのはものすごく純粋なゆえに、躾けのために叱っているのか、自分の気分が悪いことを単に子供に対してあたっているだけなのかは、よくわかる。いずれにしても、痛い思いや心が締め付けられるような思いをしたくないがために、よく言えば観察力は鍛えられたが、叱られる(怒られる)ことへの恐怖感やトラウマ、自己否定感、自己価値の喪失など、いわゆる心の傷をその後ずっと抱えることになるのだ。
社会人になっても、会社で上司に叱られることはあった。もちろん誰でも経験するであろう出来事だと思うが、今の時代は少し事情が違うらしい。
「最近の若者は叱られることに慣れていない」などという言葉を目にした。
親をはじめ、学校の先生、会社の上司など、立場の上のものがその力を使って押さえつけようとすることはパワーハラスメントということで、叱るということも難しいようだ。
人はなぜ他人を叱るのか(怒るのか)?
人は叱られることによって一人前に成長していく、という大前提があるように思う。人間性を否定するような叱り方は言語同断だが、ミスしたことに対して叱るのは、その人の成長のために必要なことという暗黙の了解があるような気がしている。つまり「その人の成長のために必要なこと」という大義名分を掲げて人を叱るのだと思うのだ。
しかし、だ。
果たして叱ることが成長に繋がるのだろうか?
単にミスしたことを指摘するのであれば、教え諭せばそれでいいのではないか、と感じる。叱られたことのある人ならわかると思うが、叱られた後に残る心の不快感、羞恥心、圧力は、ミスした出来事をリカバリーしようとする気持ちよりも大きく心に傷をつけてしまう。つまりそれしか記憶に残らないくらいに、ひどく傷つく、のだ。
もっとわかりやすく言えば、相手の心のネガティブな感情を抱かせる、だけに過ぎないのではないかと思うのだ。それが周りに人がいるところで起きたら、もう居ても立っても居られないくらいの気持ちになる人も、少なからずいるはずだ。
本当に相手のことを気遣い、相手の可能性を信じ、相手に寄り添えるのであれば、叱るという行為ではなく、教え諭す、という行為のほうが効果的だと感じる。
中には、ミスしたことに乗じて自分の中にある鬱憤を晴らすという人もいるのではないだろうか。
あるいは、自分のやり方や考え方が絶対に正しい、ということで、そんなんじゃダメだ!と叱責する。人にはそれぞれやり方や考え方、性格や得手不得手があるのだ。自分ができているからと言ってそのやり方や考え方などを強制するようなものはいかがなものかと思うのだ。
もちろんこれらは私自身がかつて体験してきたことであるし、また他者に対してもやってしまっていることだと思う。自戒のためにも綴っている。
叱る側はよく「相手のためを思ってやっている」という。そこに「愛があってやっている」と言う。確かに相手の行動を変えたい、解決させたい、という目的があるのはわかるが、叱られた側に残る感情は、行動を変えることや解決することからは程遠くなってしまうのだ。
その瞬間、相手の言うことを聞いたように反省したとしても、ただ目の前にある苦痛を回避しようとするだけの心の反応でしかないことが多い。
最初に例に出した私の母が私に対して叱ったことも、確かに愛情ゆえのことだと大人になれば頭では理解できる。しかし、その時に受けた心の傷や自己否定感、自己価値観の喪失はいまだに消えずに残っているし、子供の頃の自分の気持ちを再度感じてみれば、ただもうそこから逃れたい意識しか存在していなかったことしか残っていない。
甘やかしちゃダメだ、甘やかしたらろくな人間にならない、という考え方がある。それは昭和の時代(もっと前か?)から社会に根強くある圧力のようなものであり、それは今の時代にもあると思う。
海外の子育てと日本の子育てとを見てみると、海外では叱ることもあるが、相手を褒めること、尊敬していること、愛していることを、しっかりと言葉で伝える。ただ叱るだけではないのだ。
日本はと言えば、叱りはするけれども、褒めることはほとんどない。褒めることは相手を甘やかしてしまうとか、褒めることが慣れてないから恥ずかしい、ということで、ポジティブな言葉を伝えることが文化として存在していないように感じる。
自己肯定感や自分自身の存在価値を感じにくいのはこうした人を育てる上で褒めるということが少ない文化的背景もあるのではないかと思うのだ。
話を元に戻すと、叱るという行為はあまり効果的ではない、ということだ。
相手にストレスを与え、相手の心にネガティブな感情を抱かせ、場合によっては人間関係に亀裂が生じる。それがたとえ近しい間柄、気心知れた間柄であったとしてもだ。叱るほうが叱ることに酔いしれていたり、単なる感情のはけ口にしていたりなどと、叱られている側に感じられたりしたら、関係はあっさり崩れかねないし、良くなるばかりか悪化してしまうことのほうが多いのではないかと思う。信じたくても信じられない、と心のブレーキが無意識に作動してしまうものなのだ。
叱るのではなく、教え諭すことのできる人間になりたい。私自身が叱られて育てられたこともあり、その親の行為は無意識に引き継がれ、他者にも同じことをしてしまっていることが往々にしてある。自戒を込めて、頭に血が上らないように、熱くならずに一呼吸おいて、教え諭すように心がけたい。