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変化、連続性、美しさ
見たものや感じたことを言葉や文章にするというのはとても馴染みのある営みというか、なぜか子供の頃から自然と出来ることで、それは昔から活字に触れるのが好きで色んな言葉を自分の中にストックしてきたからかも知れない。一方で、言葉として抽象化した途端にその美しさの総体が損なわれる自然の風景というものがやっぱりある、と昨日の朝実感した。
数年前にわずか25㎡ぐらいの小さな貸農園から始めた野菜栽培。今では本格的にドはまりしていて、350㎡ぐらいの土地を相手に野菜栽培だけでは飽き足らず、今年から合計15本ほど果樹の苗も植えてみた。山間の一部を切り拓いた土地にある畑は季節の変化に富んでいて、大自然が見せる多様性と連続性、その中にある複雑さそのものへの愛情を追認できる場所だ。日々の変化、「1週間」という時間のとてつもない大きさを実感する。
1週間で見事に変化していく自然を前に、週末の作業だけでどうすれば作物が機嫌よく育ってくれるのかの実験を、土日の早朝に一人静かに楽しんでいる。農薬はもちろん、堆肥や化学肥料、有機肥料さえも一切使わない自然栽培の成り行きを確認するのが最近の一番の楽しみだ。
日常生活では見向きもしない落ち葉も、畝の上に枯草と共に敷いて雨にあててマルチでもかけておけば、あとは菌糸や微生物たちが勝手に分解して、作物にとって最良の栄養を含んだふかふかの土を作ってくれる。自分自身もそんな自然循環に組み込まれた存在だと思うと、それだけで自分を肯定できるような充実した気分になる。
キリっと引き締まる寒さの中、朝一番に落ち葉拾いをしようと決めていた。ほんの2週間前に一気に色づいた畑のすぐ近くの紅葉、そこの落ち葉を適量集めてすぐに畑に戻るつもりが、気付けばその日の作業そっちのけで、必要量をはるかに超えるモミジの葉っぱを夢中でかき集めていた。赤でも黄色でもオレンジでも茶色でもない、多様で連続したグラデーションが織りなす壮麗で可憐でどこまでも奥行きのある色合い。その圧倒的な美しさはやっぱり言葉で抽象化できない。そして、引き締まった早朝の冷え込みと、優しく柔らかい日差しの中で蒸発しながら目の前をゆっくり上っていく朝露を肌に感じながら、身体全体で「見る」のが良いと思った。
変化し続ける連続性の中に身体を委ねてこそ感受できるもの。
言葉として切り刻んだ途端にその総体を捉え損ねてしまう圧倒的な美しさはやっぱりある。