『スオミの話をしよう』の感想

 ネタバレを含みます。映画を観てから読んでください。









 笑いにいったのに笑われたような気がして落ち込んで帰ってきた。スオミの話をしようの話をしよう。

 本作は『ミステリー・コメディ』と銘打たれ、スオミの5人の夫(4人の元夫と現夫)が行方不明になったスオミを探すうちになんかわちゃわちゃする映画である。

 夫たちから見たスオミ像はどれも異なり、まるで一人の人間とは思えない。スオミは何者で、誰が彼女を連れ去ったのか。そんな謎が作品の大部分を占めているが、そこには三谷幸喜映画が期待されているほどの快感は込められていなかったと感じる。爆発的ではなかった。

 ぼくがこの映画で印象に残ったのは、非日常な事件のおかしみでなく、日常的な人のキモさだった。5人(6人)(7人)の夫と、スオミ、そしてその友達。なんか、みんなうっすらキモかった。中学生を好きになってしまったとか、詐欺師まがいとか、おじさん過ぎるとかモラハラ気質とか守銭奴とかは、この際いい。ぼくは「愛している」という自己認識のほうがキモかった。

 誰もスオミを知らないのだ。スオミ自身もスオミを知らない。なのに愛している、とか、わかっている、とか言う。スオミ自身もわからないままふらふら人を愛する。友達はそれを一歩引いて見て支えて、なんか理解者の顔をしている。誰もがなんか嫌だった。大きな勘違いをしていると思った。

 キモいだけならこんなに落ち込んでいない。僕はそのキモさを笑って観ていた。だが、このキモさはそんなに他人事ではないと思った。日常的、もっと言えばぼくの持ってるキモさだった。

 スオミの話をしているはずだが、ずっとぼくのキモさを話されていたようだ。人をわかった気になって気遣っているつもりが、結局わかってないまま逆に人の気遣いに乗っかって生きてしまったり、人を気遣わないと存在できないぐらいの自分しか持っていなかったりというのが、コメディという建て付けで出てきた。それが深くつらい。自分が笑われているような気がする。自分を笑っているような気がする。

 そして、このお話はミステリーなので、謎が主題となり、キモさは(コメディ的な文脈を除いて)特に触れられない。劇中で明確に糾弾されることはなく、ひるがえって肯定されることもない。問題だと認識されないから、解決もない(ここで言う「解決」は単にキモさをなくすというより、キモさを受け入れるような、人間讃歌的なあれを指したいと思っている)。

 三谷幸喜という作家について、彼の作品のわずかばかりしか観ていない(数年前に『ザ・マジックアワー』と『記憶にございません!』を観たぐらいの)この身から何か言うのはめっちゃ雑魚だと思うけど、言いたいから言う。彼はやっぱり非日常的な設定で日常的な人の性(さが)を描く人だと思う。話の芯に実在する(実在しうる)人がある。そして大抵、それは良くも悪くもといった感じで、作中にてある程度解決する(ここでいう「解決」は上で言及したような意味合いにしたい)。だが、『スオミの話をしよう』に限っては、人がキモいまま終わっているように思う。宙ぶらりんというか。それで落ち込んでいる。

 感想として書いてみてわかったが、確かにキモい。真面目に映画を観ろと思った。なぜコメディ映画で自意識を刺激されて落ち込んでいるんだお前は。本当にごめん。

食べる予定はなかったのだが、豚骨ラーメンと、チャーシュー丼にマヨネーズをたっぷりかけたやつを食べてしまった。笑いにいったのに、まさかこんなに落ち込むとはね!

 文章の冒頭で快感が足りない旨を述べたが、それを補う形でこのように感動(感情が動くという文字まんまの表現としての感動)できたので、「宣伝された魅力と実際の魅力が異なる映画」だと言えると思う、一言で言うならね。何も一言で言ってはいけないんだけどね。何も一言で言うなよ!そこに本質なんかないからな!

 読んでくださってありがとうございました。さようなら。

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