僕らが選べなかったこと(映画『PERFECT DAYS』考察)
映画『PERFECT DAYS』を観た。
鑑賞後、おそらく人によってフォーカスする点がさまざまな作品だろうと感じ、実際に感想や考察を検索してみてもその通りだったので、自分の感想も書き残しておこうと考えた次第である。
あらすじは以下の通り(公式サイトより引用)。
あらすじの通り、前半は平山(主人公)の規則的でささやかな、それでいて日々の一瞬一瞬を愛でるような生活が淡々と描かれる。その生活の中で少しずつ時間を共有している隣人たちが彩りとなり、仕事へ向かう車内で流れる音楽が物語を縁取る。おそらく多くの人が、平山の仕事(トイレ掃除)に対する姿勢や生活・ルーティンに自然と好感を持つだろう。
しかし、あらすじにある通り「思いがけない出来事」により作品全体の空気が徐々に変化していく。
(以下、ネタバレを含みますので未鑑賞の方はご注意ください。)
平山はどんな人間か
平山はおそらく高機能自閉症である。これについては公式でも明言されてはいないが、決定的な描写がいくつかある。
まず、確固たるルーティンがあるのは自閉症の代表的な特徴である。「ルーティンを特別に愛している人」と見ることもできなくはないが、銭湯のシャッターが開く瞬間に到着する描写で流石に「変わり者」以上の可能性に思い当たった。これは分・秒単位のルーティンであり、多くの人が想像・実行する「ルーティン」とはちょっとスケール感が違う。自閉症の人間を描いた別の映画では、同じく分・秒単位で決まっている時刻にトイレに入れず(別の人が利用中だったため)ひどく混乱する、という描写もあった。実際に、自閉症の人の多くはこのような特徴を持っている。
さらに、タカシが退職してその分のシフトもこなした日は、普段は話すことも稀な平山が電話口で会社の人間に激昂していた。これは、ルーティンを乱されてストレスを感じている描写だと思われる。
一方で、高機能自閉症は自閉症と異なり知的な発達の遅れを伴わない。外国人に英語でトイレの使い方を尋ねられてすぐに説明できる、一定以上の難易度の読書に難がない、というのが証左である。また、(極端に少ないものの)会話もできないわけではない。
このような、ある意味微妙なバランスで作り上げられているとも言える平山の人物像が、この物語の大きな鍵となっていると感じた。
平山はなぜタカシを憎めないのか
タカシは、アヤ(タカシの意中の女性)に平山のことを紹介するとき、「めっちゃ仕事できるけど、めっちゃ変わってる」と言った。「変わってる」ということは裏を返せば、タカシの中で平山は「普通の人」の枠内であるということである。つまり、障害や病気やその他事情のある人間だとは思っていない。
また、タカシの親友「でらちゃん」が登場したときも「でらちゃんは俺の耳たぶが好きでこうやって触りにくる」といった程度の紹介しかしなかった。でらちゃんは外見から即座にわかる通りダウン症である。ダウン症の場合は外見が特徴的なのでタカシも承知しているかもしれないが、少なくともでらちゃんと接している様子や紹介した言葉からは、「普通の人」「普通の友人」として扱っていることがわかる。
つまり、タカシは「普通の人」の範囲が広い人物として描かれている。平山のような人間にとっては、自分の負い目を忘れさせてくれるような、ある面では居心地の良い隣人だったのかもしれない。
ニコとケイコ(平山の妹)を見送ったあとに見せた涙
あらすじにある「思いがけない出来事」とはおそらくニコの訪問のことだ。
ニコは家出をして突然平山の自宅にやってきて、それから2日間ほどふたりは行動を共にすることとなる。朝、平山とニコは共に家を出て、同じコーヒーを飲んで、カセットの音楽を聴きながら仕事場へ向かう。ニコは平山の仕事をただ眺めたり、たまに手伝ったりする。平山の仕事ぶりを好意的に見ているようだった。そして、平山の馴染みの銭湯にもふたりで向かう。見慣れない女性といる平山を不思議そうに見る常連客がなんとも微笑ましかった。
平山とニコは銭湯を出たあと、自転車を漕ぎながら話をする。ニコは、母が「自分と兄(平山)は住む世界が違う」と言っていたことを平山に伝える。平山はそれを聞いても特に動揺することはなく、むしろその言い回しに納得しているように見えた。そして「世界はひとつに見えるが、本当はたくさんの世界がある」と、「世界」について自分の考えをニコに伝える。
暗くなってからふたりで帰宅すると、ケイコ(ニコの母・平山の妹)が平山の自宅にいる。平山は銭湯でニコがいない間に電話をかけていたので、ここでケイコと連絡を取ったのかもしれない。ケイコは運転手付きの高級車でやってきたため、ここで平山とケイコの実家は裕福であることがわかる。
公式サイトには平山とケイコは十数年会っていないと書いてあったので、これが久しぶりの対面ということになる。それでもケイコが平山の好物を覚えていてこれを渡したり、平山がニコについて「良い子だ」とケイコに伝えるようなやりとりから、何年も会わないながらも関係は比較的良好であり、お互いを思いやっている兄妹であることが伝わる。
二人が車に乗って帰路につくのを見送ったあと、平山は涙を流す。不穏な空気が漂い始めたこの物語が決定的に転換する非常に重要なシーンだ。
自閉症の人はどこか超然としたところがあり、ケイコの言う「別の世界」のことを深刻に気にしすぎないケースが多い。しかし平山は違う。自分にはできないこと、選べないことについてちゃんと承知している。別の世界と交わると、こういう物事が可視化されることがある。ニコやケイコとの再会は別の世界と交わることだった。平山は別の世界と交わる痛みのために涙を流したのだと思う。
平山はなぜタカシに金を貸したのか
タカシは、給料日前で金はないが今日がアヤをモノにできるかどうかの勝負の日だと訴え、平山のコレクションであるカセットを売ってまでアヤのお店に行くお金を捻出しようとする。普通に考えればとても非常識な行動で、平山がこんな提案をまともに取り合う義理はない。
しかし平山は、カセットの売却は断固拒否したものの、自分の財布から現金を取り出しタカシに渡す。タカシもそこまでしてもらえるとは思っていなかったのか、驚いていた様子だった。
タカシは作中で繰り返し「お金がなきゃ恋もできない」という発言をしている。平山にとって恋やその他の「選べないこと」はそういう次元の話ではない。お金がないから選べないことは、お金があれば選べることになる。平山は、どこか憎めない若者の「選べないこと」を「選べること」に変えてやりたくて金を貸したのではないだろうか。
友山(ママの元夫)とのやりとり
ある日、平山はママの店の中でママと見知らぬ男が抱き合っているのを目にしてしまう。平山はきまりが悪くなって(?)すぐに自転車に乗ってその場を離れる。
タバコとお酒を買って、平山はすっかり暗くなった河川敷に向かう。しばらくすると、ママと抱き合っていた男・友山に背後から声をかけられる。
友山は「病気になったのがきっかけで元妻に会いにきた」という告白をし、平山に「あいつをよろしくお願いします」と言う。平山は「そんなんじゃないです」とはっきり否定する(今まで平山を見てきた我々にとってはもっとも自然な返答に思える)。
そのあとで友山は脈絡もなく「影は重なると濃くなるのか」という疑問を口にする。平山はいつになくアグレッシブな姿勢で「試してみましょう」と言い、言われたとおり試した友山が「(重ねても影の濃さは)変わらない」と結論を出したあとも「変わらないなんてあるはずがない」と意外なほど食い下がる。
「影が重なる」ことは、別の世界と交わることや同じように見えて違う毎日(この作品では象徴的に繰り返し木漏れ日が登場する)のメタファーなのかなと思った。友山と話している、今この瞬間のことでもあったかもしれない。
ここ数日の出来事で自分の感情が大きく揺れたこと。毎日同じ場所で撮っている木の写真(毎日違うと思っているから撮っているのだと思う)。毎日見かけるけれど毎回様子の違うホームレスの老人…それら全てをないものとしたくなかった。そんな、平山のささやかな願いであったのだと思う。
最後に
作品を鑑賞し終えて、平山の「高機能自閉症」という設定はこの作品には欠かせないピースだと感じた。ここを「自閉症」にしてしまうと、これは特別な配慮が必要な人についての映画になってしまう。
平山は、親族以外の人々には単に「変わった人」と思われている程度で、自閉症の人のように特別な対応もされていない。ママの「平山さんはインテリだからね」という発言は特に決定的だと思う。
このような設定にした一方で公式サイト等でも公言しなかった理由は、平山の物語を普遍的なものとして描きたかったからではないかと思う。
世間から「特別に配慮が必要だ」とはみなされないレベルでハンデや問題を抱えている人は多い。身体の不調であったり、金銭的欠乏であったり、近しい人との不仲であったり。そう考えると、ほとんどすべての人に当てはまると言ってもいいのかもしれない。そういった問題が「選べないこと」を生み出すし「別の世界」を作り上げるのだと思う。
別の世界と交わる痛み。選べなかったこと。選べなかったことの上に存在するからこそ尊い日常。
私自身も、懐かしい痛みに思いを馳せながら平山の日常を見つめていた。