日記 誰かにとっての悪役
お昼に食べたバターチキンカレーの血糖値パンチで微睡むこの頃です。
相も変わらず気持ちの切り替えが下手くそでモヤッとし続けることがデフォルト設定されたまま、新しくバイトを始めてみたり、興味があった習い事に手を出してみたりしています。
今関係ないことである、と理解はしていてもどうにも頭にモヤがかかったような、喉にずっとつっかえているような感覚が終わらないでいる。
他人からの評価は案外いい加減(暴論)なのだと痛感した。
どれだけ自分が考えていようが、自分自身の中では筋が通っていようが、人は人を見たいようにしか見ない。相手のことをいつの間にかわかったような気で、そしてわかって貰えるような気で居たら、そうじゃなかった。期待をして、期待通りじゃなかったら裏切られたような感覚になるのだろう。誰にでもある感覚だと思うと同時に、身勝手だなとも思う。
俗に言う他人に期待しないということはこういった事から生じる感情の機微を避けるための教えなのだろうか。
私自身は数年前に、相手に期待しすぎた挙句に勝手に裏切られた気になって絶望した経験がある。相手から逃げることもできた(多分逃げてしまった方が早いし楽だった)が、絶望の中でほんのひと握りの理性が、このまま自分の思い通りにならない人から逃げ続けたら、長い目で見て自分のためにならないと思い、なんか踏ん張っていた。
それから数年間、それはもう足掻きに足掻いた。試行錯誤しまくって、あらゆる本や動画(所謂メンタルや鬱病に関するもの)を見漁ってはできそうなことはとにかく試してきた。何とかして自分自身を助けてやりたかった。
このnoteも感情の整理、日常で抱えてしまった負の感情を自分の外に出す練習として始めたものだ。
noteを始めて一年以上経った。やっと数年前の自分の絶望や感情の機微をエッセイ記事としてこのnoteに昇華できるまでになった。
なった、が。
今度は私のnoteを見たある人が、私を拒絶した。
常日頃負の感情を人に浴びせてしまうことを懸念していたが、やはり良くない結果ももたらしてしまった。
ショックのあまり体調悪化の時間が続いたが、数年前の私ならここでさらに病んでまた何年も寝込んでいただろう。
ただ、数年前の絶望の経験が、今度は今の私を救っている。というか私を何とか持ちこたえさせている。まさか支えになってくれるとは思いもしなかった。
私の懸命に足掻いた数年が、やっと私を少しばかり助けたのだ。
そもそも期待していなければ他人に振り回されないということ、自分の気持ちを優先してやること、相手に変わって欲しいと願っても期待通りには変わらないこと、自分の出来ないことを自覚し出来ないことは出来ないと伝えること…数え切れないほどの言葉と理屈を蓄えたのだ。そして、
『どんなに良い人間でも、きちんとがんばっていれば、誰かの物語では悪役になる。』
誰かにとっての悪役になってしまうことはどうしても恐ろしいが、私はめちゃくちゃ頑張ったと言えるのではないか。
好き好んで嫌われたいとは思わないが、嫌われないための自己犠牲は続かないと知ったのだ。
つい過ぎたことに思考が囚われがちになってしまうが、生きたいように自分を優先した結果がこれなら受け入れるしかない。やりたいようにやり始めた私の元から離れる人間は、これまでの嫌われないために自己を抑圧した姿の私が好ましかったのかもしれない。
絶望し、本や動画の正論も友人や家族からの心配も素直に受け取れなかった私が、まだ完全に変わったとは言えないが、ここまで自身を受け止められるようになるとは思わなかった。
自分の好きや楽しいにもっと耳を傾けるために、これからも日記という名のどっかの誰かのエッセイを披露し続けようと思う。