貧しくて困るのが貧困、貧しさを楽しめば貧楽になれるという話。
貧乏や貧しさは望んでするもんじゃないと思うけど、親の事情や生まれ育った環境などのせいで貧乏になっちゃったもんは仕方がないさ。すっぱりと諦めよう、なんて言うつもりはない。諦めるんじゃ無くって、楽しもうよって話。
そもそも貧困の定義は?
貧困家庭といえば、いかにも貧しくて困った家庭を思い浮かべると思うけどぜんぜん困った感が無い家庭もこの世にはたくさん存在しているのだね。
貧困の定義をどこに定めるかで、貧しいか貧しくないかが分かれるけど、この線引きを金銭的な基準で分けないで、生活の満足感や幸福度の実感などで分けたら、世間的なお金持ちが貧困のどん底だったりすると思うのだ。
いくらお金があろうが資産家と羨まれようが、家族との生活で満足感が不足していたり、金銭欲にまみれて幸福度の実感も乏しいようだったら、この資産家も貧困だと言えるよね?
満足な生活や幸福度はどうやって決まる?
そもそも生活での満足感というのは、人それぞれが持っている各自の基準で異なるわけだ。幸福度の実感にしても同じ事が言えるよね?月収30万円の人は50万や100万を夢見て頑張れるし、その金額を達成したら幸福実感もそこそこのモノだと思う。とりあえずは満足感に満ちあふれているだろうね。
一方で、使い切れないほどのお金を持っているのに、一緒に旅行に行ってくれる家族や大切な人がいないために使う機会が無かったり、お金で解決できる手段を選ぶしか無い人の満足感はどうだろうか?
お金があることに慣れてしまい千円や1万円のありがたさを感じなくなった人の幸福実感は、どれだけのお金で満たされるのか?結局はお金じゃ無いところに幸福度を高める追求をしていくのではないだろか?
お金は無いよりあったほうが良いに決まっているけど、ありすぎても人生を狂わす元になるから、ほどほどが良い。大きな買い物に困る程度のお小遣いというのが理想らしいよ。今は大好きなランチに困る程度のお小遣いが当たり前かもしれんけど、そのことを楽しめばいいのだ。
貧しさは恥ずべきことじゃない!
貧しいことは恥ずかしいことじゃない。たまたま金銭的に不足している時代を過ごしているだけだから、卑屈になる必要も無い。貧しい配役を割り振られた役者になったつもりで、どういう貧しさが清々しいか精一杯、気持ちを込めて演じきれば良いのだ。それも主人公であることを自覚して演じきる。
そうすれば貧困が貧楽に変わって、人生も捨てたもんじゃないなって思えるようになるよ。あるがままを素直に受け入れて貧しさを楽しむ余裕を持つことだ。そうすることで必ず貧困が貧楽に変わり、幸せがやって来るよ。
貧しいことが恥ずかしいのではない。恥ずかしいのは貧しさを隠そうとする卑屈な心のほうなのだ。貧しい中でも清々しく生きることを選択すれば卑屈な心は生まれないし、僻みも妬みも嫉みも生まれない。だから周囲が放っておかないし助けてくれるのだね。恥ずかしいという卑屈な心を捨てるとね?
貧楽で生きると必ず幸せになれる!
貧困を貧楽にすれば家族の団結も固くなる。シンママやシンパパで困っている人は真っ先に貧楽で楽しむようにすれば、子どもが素直な良い子に育つと思う。うん、絶対に育つね!良いことも辛いことも楽しい事も悲しいことも苦しいことも、ぜんぶ自分が主人公の人生劇場で演じている配役だからね。
最後にほら、よく言うじゃない?蓮の花は泥の中からしか咲かないって。
泥の中に身を置いても汚れてしまわずに、清らかでキレイな花を咲かすから人もそうありなさいと、お釈迦様の台座になってるんだよね!
どんなに人生のどん底を這いずり回ろうが、心根が汚れていなければ必ず浮かび上がることが出来るから、あきらめちゃいけない。明るい未来はすぐソコにあるぞ!
ってことで 今回のテーマは
「貧しくて困るのが貧困、貧しさを楽しめば貧楽になれるという話。」
では!
今日も のほほん。