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中央線荻窪駅から徒歩17分!四面道先の賃貸木造アパート2階奥突き当りが新婚生活の原点。

なにやら不動産会社の店頭にベタベタと貼り付けてある、賃貸物件案内みたいな変なタイトルになっちゃったけど、これから書く事は私たち夫婦のスタート地点から始まる思い出話。

若いふたりが新婚所帯を持ったのは勤務先が中野だったもんだから、中央線の荻窪駅から歩いて20分前後の木造アパートでした。

駅前から善福寺公園行きのバス便を使えば、3つ目のバス停で降りると1分もかからないほどバス停には近かったんですよ。

それにすぐ近所に銭湯もあるということで、日当たりの良い木造アパートの2階に新居をかまえることにしたんですね。

6畳一間にキッチンが1畳半、トイレは室内で、その横に小さなステンレス張りの手洗いが付いていて、靴箱なんて置けないようなスペースの、入り口の三和土(たたき)に一間(いっけん)の押し入れが付いているだけ。

洗濯機はもちろん廊下の入り口ドア横で、キッチンの窓からホースを出して洗濯するという形でした。

流し台の上に、小さな瞬間湯沸かし器が付いていたのが、寒い正月から暮らし始めたので、ことさら嬉しかったですよね。(^_^)b

これで1万2千円のお家賃でしたが、初任給3万4,500円で3年目に入る頃だったので、たしか4万5千円くらいの給料に上がっていたと思います。

これで風呂付きだったら言うことなかったんですが、まぁすぐ近所に銭湯があるからいいか、そうふたりで納得していたんですね。


ところがです、事件です、徒歩で1分もかからない近所に銭湯があるという売り込みで決めたアパートだったけど、住み始めてから半年もせずにその銭湯は廃業してしまったんですよ、潰れちゃったの。(^_^;)

結局私たちは、歩いて7~8分の距離にある銭湯に通ったんだけど、そこが定休日のときには、さらに5分ほど足を延ばさなきゃいけなかったんですね。

クレジット系の百貨店勤務で帰宅時間が遅い私に合わせて、銭湯近くのバス停までお風呂道具と着替えを持って待つ彼女と、銭湯前で落ち合ってからお風呂に浸かり、ふたり仲良くお手々つないで歩いて帰るのが日課でした。

まさに、南こうせつさんが歌う神田川の世界そのものでしたね。(^_^)b

私たちが新婚生活を始めたのが昭和48年1月からで、その年の秋に神田川がリリースされているんですよ。

まるで私たちをモデルにして書き上げたんじゃないの、っていうくらいドンピシャのシンクロした曲でしたね。(^_^)b

あとで聞いた話によると、どうも不動産屋さんも大家さんも、銭湯が廃業するということは知っていたらしいのよね・・・。(´д`;)


荻窪と言えば新婚生活を始めた場所という思い出とは別に、同級生2人とそれぞればったり会った思い出もある駅なんですが、1人は同じ町の幼なじみで医者の息子、もう1人は高校時代のダンス部女子でした。(^^ゞ

朝帰りで帰ってきた幼なじみと、出勤する私は、駅の地下通路の階段でバッタリ向き合ったんですが、こちらが出勤時間に間に合う電車に乗らなきゃいけなくて、ただお互いに声かけ合って挨拶してすぐのお別れでした。

もうひとりのダンス部女子は、当時のKDDで交換業務をやっていると、乗り合わせたバスの中で、二言三言、言葉を交わしただけの素っ気ない再会でしたが、まぁ、あんなもんでしょうね。(^_^;)

それと思い出深いのが、義父との初対面がこの荻窪のアパートだったこと。

義父は口には出さなかったけど、20歳と21歳で駆け落ち同然で上京して新婚生活を始めた愛娘を心配して、見守るつもりだったのか、自分も東京の地下鉄工事現場に、季節労働者として半年間上京していたんですよ。

休みのたびに板橋区の志村坂上にあった飯場のプレハブ宿舎から、荻窪近辺まで出かけてきては、娘(私の妻)を誘い出しては食事をご馳走したり東京見物に付き合わせていたんです。

そんな義父が、私が休みでアパートにいるときに訪ねてきたことがあったんですが、その時が義父と直接会う初対面の瞬間でした。

もちろん電話では話したことがあったんだけど、面と向かうのは初めて。
お互いに遠慮しぃしぃぎごちない挨拶を交わしてから、狭いアパートにいるのも窮屈で外食しようと店探しですよ。

その日の夕方に義父を接待しようと、奮発して荻窪近辺の雰囲気のありそうな店を探して、なんとか予約したんです。

記憶も薄いけど、たしか忍者屋敷だったか、からくり屋敷だったか、そんな店名の和食系の創作料理屋さんだったけど、からくり屋敷風の凝った内装や江戸時代風の料理名も、義父にはあまり喜ばれなかったんです。

おまけに味がどうだったか、どんな料理を食べたのか、まったく思い出せないのです、この記憶力抜群だった私でさえ・・・。(^_^;)

まぁ、取り立てて美味しくもなく、豪華でもなく、盛り上がらずに終わってしまったんだと思うんですよ、おそらくだけど。

やっぱり無難に、焼き肉屋さんか鮨屋さんにすれば良かったねぇと、あとで二人して悔いた思い出だけが残っているんですよね。(^_^)b


次に義父がやって来たときに、冷蔵庫も無かった新居に来て気になっていたのか、冷蔵庫くらい買えと、お金を置いて帰ったんです。ヾ(^v^)k

さっそく社員購入の2割引で、4万5千円の冷蔵庫を購入したんですが、この冷蔵庫が記念すべき新婚所帯の、電化製品第2号でした。

え?
第1号は何かって?

それは、比較的低価格だった洗濯槽と脱水槽がついた2槽式の洗濯機。
これが電化製品の第1号でしたが、冷蔵庫も電子レンジ(まだ開発もされていない)も掃除機ですら無かったんですよ・・・狭いから要らんけど。(^_^;)

義父の結婚祝いという名目の冷蔵庫は、モーターが頑丈だよって電気売り場の先輩が薦めてくれた日立製の冷蔵庫だったけど、そのあともずいぶん長持ちして10年以上は使ったもんね。(^_^)b

もちろんその当時の冷蔵庫なんで、冷凍は同じ庫内の上部に製氷皿を置くタイプのヤツで、ワンドアの冷蔵庫でしたが、嬉しかったですね。

その当時の新婚生活をスタートさせたアパートの思い出はこちらにも。


それから5年後くらいに郷里に帰っていた私たちでしたが、電子レンジがシャープから発売されたときに、取引先の大型家電店の課長に無理やり買わされて、冷蔵庫の上に鎮座することになったんですよ。

レンジだけに、チン座ですね。( ^o^)ノ◇ ザブトン1マイ

ワンドアの小ぶりな冷蔵庫と、その上にチン座している電子レンジがセットになって、狭いキッチンでも豪華に見えたもんですよ。(^_^)b

最近の冷蔵庫はやたらとデカくなって、上にレンジを置くなんてムリな相談っていうタイプだらけですもんね。

積もってみると現在使っている冷蔵庫は、初代の4万5千円から数えて5代目なんですが、おおよそ各代で10年は保っている計算ですね。

それぞれ同じくらいずつ暮らしてきた冷蔵庫のはずなのに、もっとも印象的なのが初代の4万5千円君なんですが、最初に出会った文化的生活の記憶と義父が結婚祝いとしてお金を渡してくれたことなどで、忘れがたいのですよ。

そんな初代の冷蔵庫と慎ましく暮らした結婚生活の原点が、荻窪なんです。

そうそう、8年後のちょうど30歳になった記念旅行で上京したときの話。
私たちが住んでいたアパートをその時に訪ねてみたら、駐車場だったアパート1階の大家さんの玄関口が、こじゃれたカフェに変身していました。

私らが住んでいた頃には、ねんねこで背中に赤ちゃんをおんぶしていた大家の奥さんが、首にはスカーフ巻き付けて、高そうなアクセサリーをチャラつかせるっていう、セレブ風に変身されていたのにビックリ仰天でした。

親と働いていた建設業の大家さんも、親から家業を引き継いで代表になっておられて、自分ちで駐車場の一画を使ってカフェを建てたらしいのです。

今振り返ると、8年間なんてアッという間だけど、その当時の22歳から30歳までの8年間は、とても長い歳月だと感じていたんですよね。(^_^)b

お互いに、懐かしいねぇ・・・と言い合いながらも、話のタネはすぐに尽きてしまうし、同じ頃に住んでいた人たちや近所のお店の近況を話し合えば他に話すことも無くなって、気詰まりな時間だけが過ぎていくわけですよ。

適当に切り上げてホテルのある赤坂見附に帰る道すがら、ふたりで当時を懐かしみながら楽しく語り合えたものの、ちょっぴり期待外れの思いを残しながら、ふたりの原点の地を後にしました。

これね、去った側は懐かしいのだけど、残った側はいつもと同じ日常の繰り返しだから、そんなに懐かしいとも思わないのですよ。

っていうか、懐かしさに温度差があるってことですね。
そうそう、温度差と言えば・・・冷蔵庫。


落ちたところで、この記事はチーム冷蔵庫主催の #冷蔵庫企画 に参加するための記事でした。(^_^)b


ってことで,今回は
中央線荻窪駅から徒歩17分!四面道先の賃貸木造アパート2階奥突き当りが新婚生活の原点。」という冷蔵庫にまつわる思いで話でした。


では!

人生の  醍醐味こそが  のほほんと


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