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罪あるものに自然の裁きを――『スペル』

【週報】2017.10.02-08

よう、元気してるかい。下品ラビットだ。
秋も中盤に入ったな。秋ナス。秋刀魚。栗。きのこ。旬のうまいものがたくさん目に入る。
渋谷の居酒屋「」(https://tabelog.com/tokyo/A1303/A130301/13029298/)は梅酒と旬の食材が楽しめるいい店だが、いまの時期は秋刀魚ときのこのアヒージョと、秋ナスの揚げたのの煮浸しを出してくれる。これが酒に合うんだ。日本酒がいいが、ビールでもいける。

旬の味は自然の恵みだ。植物にしても動物にしても、周囲の環境によって育まれ、環境の変化から影響を免れない。自然の変化は生物に変化をもたらし、味を変える。
もちろん、人間は環境を局所的にコントロールするすべを手に入れたから、年中変わらない味を作り出すことはできる。でも、それは多大な労力を要するものだし、それだけに不自然だ。自然てのは、もっとゆったりとして安定してるもんだ。頑張ることは悪いことじゃないが、頑張りすぎもまたよくない。
頑張らないでうまいものが食えて、しかもそのラインナップが時々によって変わるんだから、変化に身を任せたほうが退屈しなくていいだろ。
おれたちうさぎはそうしてのんびり生きている。

だが、人間はそうはいかないみたいだな。いつでも同じ味を求めてしまったり、自分のこだわりを優先してしまったり、必要以上に頑張ろうとする。
それは文明という補助のあるおかげでできることがだ、その補助が必要であるって事実こそ、人間が不自然な生を余儀なくされてるって証拠でもあるよな。自然な生を謳歌するってことは、自然な死を受け入れるってことだが、それを受け入れるには、あまりにも人間は弱っちすぎるんだろう。

しかし、自然てのはでっかいぜ。人間ごときが、いや、人間に限らない、おれたちうさぎも含めた、生き物ごときがどんなにあがいたって、自然の中で生まれ、自然のサイクルの中にいる以上、そのさだめを逃れることはできない。
SFなんかで人工環境に生きることで自然環境を克服する、といったような話があるが、あれだって自然環境に代わる人工環境を用意してるだけだ。周囲の環境に依存し、そのサイクルの中にいるって意味では、既存の自然だろうが、人工の自然だろうが、自然であることに変わりはない。
つまり、おれたち生き物は、周囲の環境に即して生きていくしかないってことだ。それは自己中心的になるなってことではない。真に自己中心的になるってことは、自己を中心とした周囲の環境を理解するってことだ。周囲の環境を無視して、自分の都合だけを考えるのがよくないことなのさ。

そういうことを、おれたちに教えてくれる物語がある。それが怪奇幻想譚だ。
幽霊、おばけや怪物、悪魔の話は、実は自然環境との関わりの話なんだ。

幽霊とは死者のことだ。死者たちの話は、自分たち以前に存在したものたちのことを忘れるな、彼らが自分たち同様、様々な思いをもって生きていたことを知れということだ。そして、死者とは今いる人間を作り、存在させる環境の一部だ。
おばけや怪物は自然の脅威のアレゴリーだ。自然のふるまいのほとんどは、人間の五感が存在を捉えてはいるものの、視覚にはっきりと映らないために、原因がさだかでない。しかし、それは人間に理解できないってだけの話だ。それらは「ある」し、「いる」んだってことを、人間は視覚以外の感覚でりかいしてしまう。そこにギャップが生じるから、理由を求めておばけや怪物を想像する。それは死者同様、それらは今いる人間を作り、存在させる環境の一部なんだ。
そして、悪魔。悪魔とは人間の中にある、反自然的なふるまいの原因をさす。人間はかつて自分たちを育む自然を擬人化し「神」を見出した。そして自然こそがルールであり、「神」を生き物が従うべき「法」とまで考えるようになった結果、「神」に従わない反自然的なふるまいを戒める必要が生じた。でも、自然の一部であり、神の創造物である自分たちが、ただ悪いなんて思いたくはないだろ。だから「悪魔」という反自然的な存在を持ち出して、彼らにそそのかされた、取り憑かれたと言い訳した。でも、そういう反自然的なふるまいをしてしまう人間もまた、人間を含む環境の一部なんだ。
ほら、こうしてみると、怪奇幻想譚を怪奇幻想譚たらしめている要素は、これすべて自然環境のことなんだ。そして、それに襲われる人間とは、実は反自然的ふるまいをしてしまう、ねじくれた存在なんだ。
怪奇幻想譚を見る、読むってことは、つまり、「自然なあり方」について考え直すことになるんだぜ。

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映画『スペル』は、原題を『DRAG ME TO HELL』、つまり『私、地獄行き』という。
これは主人公の銀行員クリスティンが地獄行きになるまでの話だから、原題はまことその通りというしかない、いいタイトルだ。
それが邦題で『スペル』になったのは、「地獄行き」の概念が日本の観客には理解されがたかったからじゃないかとおれは思う。「イッペン、シンデミル?」なんて言われたってピンとこないしな。「スペル=呪いの呪文」がきっかけになってるから、まあいいかってなもんだろう。
だけど、これじゃこの映画の真髄を見逃すんじゃないか。この映画は呪いと悪魔に襲われる主人公の苦闘を描く映画、つまり怪奇幻想譚だ。怪奇幻想譚は人間の反自然的ふるまいを見つめ直させる物語だ。ということは、「主人公には地獄行きになる理由がある」ことこそ、この映画の真髄なんだが、『スペル』がタイトルじゃ、その「呪い」をかけられる理由までクローズできないように思うんだ。

そう、この映画の主人公は、地獄に落とされてもしょうがない人物だ。
彼女は、かわいそうな老婆の、文字通り一生に一度の願いを、自分の立身出世のために無碍にする。
彼女は、恋人の歓心を買うために銀行のコインをちょろまかす。
彼女は、我が身可愛さに猫をぶち殺す。
彼女は、自分の身代わりにしていい人間を血眼になって探し回る。
そういう自分勝手なゲス女が、この映画の主役だ。

この点をもって、主人公に共感できず、この映画がつまらない、などというやつは嘘つきセンスのないやつだ。
彼女はたしかに善人ではない。だけど、これが自然な人間の姿じゃないか。自己中心的で、危機にひんしては保身に走る。まったく自然な人間の姿だ。あんただって、そう、この文章を読んでるあんただって、クリスティンのように、自己中心的なふるまいの一つや二つあるだろう。これだけで地獄行きになるなら、人間は誰も地獄行きだ。

そう、問題は、彼女がゲスなところにあるのではない。
彼女がそういう自分の自然な姿を認めないところにあるんだ。
彼女は、かわいそうな老婆の、文字通り一生に一度の願いを、自分の立身出世のために無碍にしたことを、上司のせいにする
彼女は、恋人の歓心を買うために銀行のコインをちょろまかしたのを、当然のことだと思っている
彼女は、我が身可愛さに猫をぶち殺しても、それは悪魔の脅威をのがれるためにしょうがないことだと思っている。そしてそのことを恋人に聞かれて悪印象をあたえたくなくてごまかす
彼女は、自分の身代わりにしていい人間を血眼になって探し回り、ついに自分を貶めた人間を殺していい人間と思い定めてしまう
上司のせい、悪魔のせい、自分を貶めた悪い人間のせい。主人公クリスティンは、自分の身に降り掛かった「スペル」を、つねに誰かのせいにしまくっている。
その証拠に、彼女は自分がかつて太っていたことを認めようとしない。農家の生まれの自分、田舎の「ミス豚ちゃんコンテスト」で優勝したデブ少女だった頃の写真を握りつぶすシーンが印象的だ。

これは、実に古典的な因果応報譚の主人公の造形だ。本邦における因果応報譚の傑作、『東海道四谷怪談』を見てみろよ。四谷伊右衛門は公金横領、義父殺害、不倫、岩の殺害と悪事を繰り返し、そのために恐ろしい死を迎える。彼の罪の一つ一つは、もちろん社会的に死を迎えておかしくない大罪だが、彼が「悪役」として活躍し、その活躍のクライマックスである恐ろしい死を迎えることができるのは、彼がこの幾多の悪事を行って、それを反省する様子のまったくないところにある。いや、本心では反省しているのかもしれないが、それを自身の態度や言動に反映させ、自身を変えることのないところに、彼の悪の本質がある。
つまり、伊右衛門がそうであるように、地獄行きの悪党とは、自分を含む自然に対して反している存在なんだ。

「[前略]もしも君の飼っている猫や犬が君に話しかけて、人間らしい流暢な言葉で議論をはじめたら、どんな気持ちがするかな? 君は恐怖にすくみ上がるだろう。絶対そうに決まっている。そして、もし庭の薔薇が不気味な歌をうたいはじめたら、君は気が狂ってしまうだろう。それから、もし仮に、道に堕ちている石ころが、目の前でどんどんふくれて大きくなったら――前の晩に見た小石が、翌朝意思の花を咲かせていたら? まずこういった例を考えてみれば、とは本当はどんなものかということが、多少想像できるかもしれん」
[中略]
罪には何かおそろしく不自然なものがある――おっしゃりたいのは、そういうことですか?」
「その通り。[中略]善も悪も今日の人間――社会的、文明的存在である人間――には不自然なものであって、しかも悪は善よりずっと深い意味で不自然なのだ。[後略]」(引用者)

これはアーサー・マッケン「白魔」の冒頭、二人の紳士が「この世の悪とその犯す罪」について語るシーンからの引用だ。不自然なものこそ悪であり、不自然を行うことこそ罪なり、と、これは洋の東西を問わない、環境の一部として生きる人間の理性のあるべき反応なのは、さっきの『東海道四谷怪談』の例と突き合わせればわかるだろう。

そして、この点をもって、主人公に共感できず、この映画がつまらない、などというやつは本物の嘘つきだ。嘘の一つもつかないで、人間が人間であれるもんか
問題は、その嘘とどう向き合うか、嘘をつく自分とどう向き合うかだ。そして、人間はたいていの場合、そういう自分と向き合えない。だからこそ『スペル』の主人公は最後の最後まで、自分自身と向き合うことを恐れ、逃げ回る。これによって因果応報譚としての構造がなりたつし、観客は主人公の行動から目が離せない。
あるいは、嘘をついている自覚がないんだとしたら、それは本物の地獄行き野郎かもしれない。そういうやつは、この映画を見ても、怖気を振るうこともないし、クスリと笑うこともないかもしれないな。

そう、この映画は、自分勝手で嘘つきな姿こそ自然なありさまである人間にとって恐るべき因果応報譚であり、そういうことを超自然の存在を通じて語る怪奇幻想譚でありながら、だからこそめちゃくちゃ笑えるコメディでもあるんだ。
これは、主人公の置かれている状況を笑いに転化することで、観客が必要以上に主人公に感情移入することがないようにという、サム・ライミ監督の配慮だとおれは思う。
笑いとは、笑うものと笑われるものを隔て、対象を異化する作用がある。笑っているものは笑われてはいないのだから、必然的に彼我に差が出る。すると、観客は、作中みっともない主人公クリスティンを笑うことで、実は彼女が自分の写し身であることを、そこまで強く意識しないですむというわけだ。
と同時に、距離を置いてクリスティンを眺めることで、観客はクリスティンのみっともなさ、反自然的なふるまいを、じっくり観察することができる。すると、わかるだろう、彼女のみっともなさが、自分の中にもあるみっともなさだってことが。
だから、わざわざ気持ち悪い効果音を追加してまで執拗に描かれるババアの入れ歯の出し入れ、主人公の車の中での主人公とババアのゼロレンジ格闘シーン、夢の中のババアの口からオゲゲーッと吐き出される虫の大群は言うに及ばず、ドピューと噴く鼻血口に突っ込まれる腕、しつこく襲い狂うハンカチスポポーンと飛び出るババアの両目、果ては墓地での独りずもうの果てにごっち~ん☆などなど、漫☆画太郎先生のマンガかと思うような古典的ギャグが繰り広げられるんだろうな。

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そして、ここまでけちょんけちょんに貶してきた主人公は、実は悪人一辺倒というわけでもないところもまた、この映画のいいところだ。
主人公クリスティンのいいところ、彼女の自然な姿に立ち返ろうとするふるまいがどんなものか、もし気になるならあんたも見てみるといい。特に後半、追い詰められてにっちもさっちもいかなくなったクリスティンが、ひらきなおることでむしろ自然なふるまいをしていくところは、彼女をしてこの物語の主人公たらしめる、面目躍如の展開だ。
そして、そんな彼女のふるまいは、あんたが不自然なふるまいをしてしまった場合、その後どうリカバリすればいいかを学ぶお手本になるかもしれないぜ。

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といっても、タイトルが示すように、結局はこうなるんだがな。その辺のサプライズもいい感じだ。結局クリスティンは、おれたちがそうであるように、嘘つきで軽薄で自分勝手な生命のサガを逃れられない。
ドーン! と出て来るタイトルが示すのは、くれぐれも手前勝手な思いあがりにはご注意を、ってことなのさ。


(下品ラビット)

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