コロナ渦不染日記 #12
五月十一日(月)
○暑い日。日中の気温は三十度に迫る。穴ぐらのなかにいても、毛穴からじっとりと汗がにじんでくる。対して、夕暮れに近づくと、風は涼しくなってきた。初夏というよりは残暑、初秋に近い印象である。
○銀座のユニクロが営業再開したという。経済活動の停滞も猖獗を極め、ここ数日の新規感染者数の減少にともない、休業を解除するところが出てきているようだ。国からの援助があったとしても、そうするのはやむをえないことであろうが、こういう場合にさっと動けるのは、ユニクロが大手企業だからであろう。中小零細、個人事業主の方々は、一度動きを止めてしまったらなかなか再開できない。
○都内のポーカー賭博店が摘発されたという。自粛に飽きてやってくる客で、先月は盛況であったらしい。明らかにマークされていたのだろう。タレこみがあったのかもしれない。
○検察庁法改定案の件は今日もかまびすしい。Twitter上で賛同した芸能人や文筆業の方々が、ある人はじしんの誤解と不明を恥じるツイートをし、ある人は「自分の発言をめぐってファンが対立するのがいやだった」とツイートを消去した。その方々の、そしてそれ以外の、自分じしんの考えに基づいて行動した方々の意見は尊い。それがたとえ間違いだったとしても、他者からの批判や評価によって、その間違いを認識し、改善に努めるのであれば、間違えたことに意味が生まれる。
○だが、その失敗を揶揄したり、改善を求めない攻撃をすることは恥ずべきである。
なぜなら、生きるということは、失敗の連続だからである。
生の最終的な姿は、常に死である。その前提のうえで、仮に成功し続ける生があったとして、それは死に至る道を駆けぬける姿に他ならない。だが、人間をはじめ、ぼくたちのような知性ある生きものは、それができない。生まれたその瞬間から、ぼくたちは失敗し続ける。だから、その失敗を認識し、改善につとめる知性を得たのである。そうして、死ぬしかないこの生に、喜びという意味を見いだしたのだ。
失敗を攻撃することは、こうした知性の所有に反する行為である。改善の前提となる失敗を否定したら、我々知性を持つ生きものはどうやってよりよい姿を目指すことができようか。
もちろん、失敗は損失をともなう。だから、過剰に失敗を非難するものは、損失に耐えられないものである。どこかで、なにかの理由によって、自他の失敗を許容できないまでに、余裕を失っているのであろう。
○本日の、都内の新規感染者数は十五名。減少傾向は六日目になる。だが、休業を解除する店舗や、経済活動を再開する地域が出れば、新たな感染者が出るのではないかという懸念が消えない。
五月十二日(火)
○取引先に顔を出す用事ができたので、久々に自宅から出て仕事をした。
○帰宅後、少し昼寝をする。夕食を作る気がしなかったので、下品ラビットとともに外食。ローストビーフ丼を食べる。
○帰宅後、インターネット上で話題の、ありま猛『連チャンパパ』を読む。
作者のありま猛氏は、『BARレモン・ハート』などの古谷三敏氏の〈ファミリー企画〉に在籍していたというが、かの作品に通じる丸っこくてかわいらしい絵柄ながら、描かれるのは不倫、借金、ギャンブル狂い、無職、ネグレクト、ホームレス生活などなど、シビアで現実的。自分の息子が、自分のギャンブル狂いのせいで学校でいじめられ、つらい思いをしていると知るや、居候先であるヤクザの事務所でヤミ金の債務者の情報を盗み見し、債務者の子供の通学先にその家庭の情報を流し、「金を払わないと子供がつらい思いをするぞ」と脅して取り立てを行う主人公の笑顔がこわい。
五月十三日(水)
○朝からひどい腹痛でなかなか仕事にならず。寝転がったりトイレと往復しながら在宅仕事をする。きのうの急な出向がストレスになったか。
午後になっても治まらないので、いまは亡き祖母が作ってくれた梅エキスを舐める。ひどくすっぱいが、効く気がして、折にふれて舐めているが、まだ小瓶に三分の一ほど残っている。
○昨晩読んだ、ありま猛『連チャンパパ』についてつらつら考えるに、あれは日常の陥穽とそこにはまり込んで抜け出せない人間の「業」についての物語として、ジム・トンプスン「この世界、そして花火」に近いものがある。
「マーティ、アンドルー伯父さんの家に行ったときのこと、おぼえてる?[後略]」
おぼえている。アンドルー伯父の息子たちの、年かさの三人がキャロルを納屋の陰に引っ張り込んだのだった。おれは棍棒片手に駆けつけて――滅茶苦茶に殴られて半殺しの目にあった。アンドルー伯父に。お袋はただ見ているしかなかった。
「おぼえてるよ」笑って、おれは言った。「だけど、どう考えればいいか、いっただろう、キャロル。彼らがノーマルなんだよ。大雑把なところを言えば、彼らのあり方が正しいんだ。おれたちは差別されたり、迫害されているわけじゃない。なぜおれたちがつらい思いをしなければならないかと言うと、この世界では彼らが標準だからなんだ。おれたちは世間とは違う時間と状況を生きているから」
「ええ、わかってるわ。でも——でも——」
いや、これについては「でも」はないんだ。悪人が、正義に満ちた世界で安楽に暮らしていることがある。しかし、悪さをして、間違いだらけの世界に、おれたちがかつていたらしい世界に、追いやられることもある。どうにもならないんだ。いいか、どうにもならないんだよ。不当な扱いが積み重なって、押しつぶされそうになるんだ。
「標準は絶えず変わっている」おれは言った。「人が変われば、時が変われば、状況が変われば、違うものになる。ある人間のためになることが、別の人間には不利になるかもしれない。だけど、どちらも常にノーマルな立場にいるにことに変わりはないんだ」
——ジム・トンプスン「この世界、そして花火」(三川基好・訳)より。(太字強調は引用者)
ここに引用したのは、詐欺師で人殺しの主人公が、双子の妹で近親相姦的な関係にある、結婚詐欺師の妹に、自分(たち)の世界観を語るくだりである。主人公が言っているのは、自分たちは過去のある時点から、「ノーマル」な世界からこぼれ落ちてしまった、ということである。ものごとの良し悪しを分ける基準はどんどん変わっていくが、そうしたことと無縁の場所、夏目漱石『草枕』を引用すれば「人でなしの国」に、主人公たちはいるのである。どんなに潮目が変わったとしても、彼らが「良し」と評価されることはないのである。
『連チャンパパ』で描かれるのは、そうした「『ノーマル』な世界からこぼれ落ちてしまった」ある家族の姿である。つまり、かのマンガはノワールなのだ。
○新型コロナウィルスに感染し、入院していた、力士の「勝武士[しょうぶし]」が亡くなった。スポーツ選手は疲れによって免疫力の低下が起こりやすいとも、くだんの力士に糖尿病の既往症があったという話もあるが、いずれにしても二十八歳の若さで亡くなられたことは惜しいことだ。
○政府は、明日、特定警戒都道府県を含む三十九県で緊急事態宣言を解除する方針で閣議をするという。とはいえ、外出自粛に類する感染拡大への注意は行うというから、これでは「緊急事態宣言」の意味がないように思う。しょせん、政府からの「緊急事態宣言」よりも、マスクをしているかどうかや他人との距離、店舗の営業や他県からの越境者を監視する「世間」のほうが力を持っているということか。
○仕事でくさくさすることがあったので、映画『ハート・オブ・マン』を見ながら、これまた祖母が亡くなる前につけてくれた梅酒を飲む。こちらも酸っぱい。
五月十四日(木)
○政府は、先月七日に発出し、先月十七日に対象範囲を全国に拡大した「緊急事態宣言」を、三十九県で解除する方針をかため、午前中、この災禍に即する基本的対処方針等諮問委員会に諮問した。そして、その内容を受け、夕方には緊急事態宣言解除の方針を正式発表した。
しかし、外出時のマスク着用、「密閉/密集/密接」のいわゆる「三密」を避ける行動、店舗営業の自粛や営業時間の短縮など、この災禍以前の生活様式にのらない、「新たな日常」とやらを続けていくことにかわりはない。「緊急事態宣言」などというのは、この災禍に対する社会の免疫反応にすぎず、これ自体に、この災禍の原因である新型コロナウィルスをどうにかする直接的な効力はないからである。
であれば、「緊急事態宣言」とはいったいなんだったのか。「緊急事態」とはこの災禍のことをいうでのはないのだろうか。総理大臣は、「感染者数が一定基準以下に抑えられていることを確認できた三十九県を解除の対象とする」ものの、「感染者数の増加によっては緊急事態宣言の再発出/再指定もありうる」という。そうした予断を許さない状況を、「緊急事態」とは呼ばないのである。
○本邦で、諸外国に比べ感染の拡大が抑えられている理由を、「国民の努力の成果」という。国民一人ひとりの感染防止の意識の強さ、相互の影響を考えたうえでの適切な行動を評価する声もある。だが、ぼくは、これは「世間」によるものと思う。ある基準を無意識下に共有させ、その基準によって相互監視をさせ、自分だけが足並みそろえた動きからはみ出すことへの本能的な恐怖を植えつけるのが、日本式の「世間」である。
もちろん、この「世間」についての決定版である、阿部謹也『「世間」とは何か』にもあるように、「世間」は悪いというだけのものではない。宗教とおなじく、「世間」は教育機関であり、判断基準であり、知的存在の人格形成において家庭以上/社会以前の役割を果たす。教育機関と同じように、社会へステップアップしていく前段階として、他者と触れあう場所である。
だが、ここを支配しているのは、「土地」「風土」を共有するものどうしの感覚的な同化の原則であり、他者の認識よりも自我の拡大を思考する。だが、個人の肉体を超えた自我の拡大など、より巨大な「集団」への同化でしかない。寄る辺なさの解消にはなっても、自分の足で立つ力や勇気や思考力を育てる場としては、逆説的な場合をのぞいて不適切といえよう。
だから、もし「国民の努力」というのが「一個人の努力」を指すのであれば、それがこの災禍の本邦における感染拡大を防ぐのにどれだけ役に立ったかは不明のままであると思う。もっとも、「国民」を「集団」ととらえるなら話は別だ。
○夜、『深夜の告白』を見る。相変わらず大傑作。
だが、この映画の原作である、ジェームズ・M・ケイン『殺人保険』に比べて、『深夜の告白』は「都合の良すぎる」ところが多い。冒頭の、あまりにも有名な「深夜の告白」シーンからして、主人公に甘いことばづかいが多いし、ラストに至っても、主人公を真に救う人物が現れる。
対して、ケインの原作は、徹頭徹尾主人公を突きはなす。物語全体を叙述する主人公のことばは訥々としてぶっきらぼうであるし、映画版で主人公を真に救った人物とは別れたままで、ラストはどうしようもない。ある意味、その救いのなさこそが、どこまでも堕ちていった果てに、自分と、自分が「愛した」おんなの本性にむき合わざるをえなくなった主人公にとっての救いであることは、坂口安吾の名文を引けば納得がゆこう。
この三つの物語には、どうにも、救いようがなく、慰めようがありません。[中略]
それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身[うつしみ]は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野[こうや]を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或[ある]いは人間のふるさとを、ここに見ます。[後略]
——坂口安吾「文学のふるさと」より。
(太字強調は引用者)
映画『深夜の告白』の脚本を書いたのは、「ハードボイルド」の代名詞とでもいうべき作家「レイモンド・チャンドラー」である。彼はケインを「文学のクズ」と評していたというが、だからこそのあの美文調、うるわしい展開だったのだろうか。ぼくはチャンドラーも嫌いではないが、ケインのほうが好きだ。それは、安吾が「暗黒の孤独」と書いたもの、「文学のふるさと」を書いているからである。
「暗黒」は、フランス語に訳せば「noir」となる。
五月十五日(金)
○在宅勤務中、こんな記事を読む。
ここで、京都精華大の学長がおっしゃっているのは、「世間」のことであろう。
今回の事態で、日本人の本音に触れた気がします。冷静に見えて他人へのいらだちを募らせていたり、堅い職業の人が、歌舞伎町やパチンコ店でこっそり気分転換したり、表と裏の二面性がある。プレッシャーの強いストレス社会なのでしょう。また「自分ではない誰かがしてくれる」気持ちが強い。サービスが整いすぎているのが日本の弱さで、知恵や能力を使う機会がなく、自ら考えて動くのが苦手で他責傾向がある。ただ、わかっているのは、この問題は誰かが解決してくれるものではないということです。
——「アフリカ出身・京都精華大サコ学長 コロナ問題でわかった『日本人のホンネ』」(『AERA.dot』)より。
(太字強調は引用者)
こういう世間に生まれ育ち、こういう世間を変えようとしながら、こういう世間を再生産してしまう人の姿を見て、夏目漱石は「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通とおせば窮屈だ」(『草枕』)といい、坂口安吾は「大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではない」(「文学のふるさと」)といい、山田風太郎は「明日のことも知らぬ、哀れな、絶望的な、そそのくせたちまち希望をとりもどして生きてゆく楽天的な日本人」(『戦中派不戦日記』)といい、阿部謹也は「世間が一人一人で異なってはいるものの、日本人の全体がその中にいるということであり、その世間を対象化できない限り世間がもたらす苦しみから逃れることはできない」(『「世間」とは何か』)といった。一九〇六年に書かれた『草枕』から、一九九五年に書かれた『「世間」とは何か』まで、じつに八十九年のあいだ、日本人はなにも変わっていなかった。いわんや我々をや。
○だが、だからこそ、ぼくは「染ら不」でいたいのである。たとえそれが、阿部謹也氏が「自己を世間からできるだけ切り離してすり抜けようとする」態度であり、現代という「世間の問題を皆で考えるしかない状況」にあっては「そうはいかない」のだとしても……なぜなら、氏がそのようにいってから二十五年がたったいまも、日本人は「世間の問題を皆で考える」ことをしていないからである。
あるいは、「染ら不」をつらぬく果てに、その個人的な姿を普遍的なものへと転換する、抽象性を獲得するブレイクスルーをおこせまいかという期待もある。
人は自分じしんでしかありえない。だが、その自分じしんを「ことば」で表現したとき、それは自分を超えて、誰かに届く。もちろん、ことばとは文化であり、文明であり、それは「世間」のなかでしか育まれないが、同時に「世間」を超え、「世間」を離れうる唯一の手段でもある。エッセイや私小説はそのことをもっとも簡単に示す。個人的なことを突き詰めれば、いつか普遍的な真実に至ることができるのだ。いびつな塊も、研ぎ澄ませば、なに物をも貫くするどい針となるように。
——五月六日の日記より。
○夜、岬でイナバさんと夕食。
移動時も帰宅時も、一週間前とは比べものにならない人出。もちろん往事に比べては少なくはあるが、それでも十時を過ぎて電車の座席が埋まるのを見るのは久しぶりである。
イナバさんの家に、政府配布のマスクが届いたという。その話をするイナバさんは、自作の布マスクを付けていた。
○五月一日から申請が始まっていた、中小企業向けの持続化給付金の振り込みが開始されたという。中小法人には最大二百万円、個人事業主には最大百万円が振り込まれるというから、これで一安心できる人も少なくないのではないか。もっとも、これだけでは足りない、一時しのぎにしかならないという方も多くあろう。申請方式も、当初はオンラインのみで、実際の窓口が動き出したのも今週十二日以降であるというから、制度の整備も万全とはいいがたい。
○久井諒子『ダンジョン飯』九巻を読む。
相変わらず面白いが、そろそろ大きな物語をたたみ始めていて、このシリーズの特色であった「『食』という観点から既存の自然を解体し、発見していく、博物学的な喜び」の要素が薄れていくうらみがある。
参考・引用文献
イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/)