内なる荒野に標識を――『キラー・インサイド・ミー』
【週報】2017.11.13-19
やあ。おれだよ。映画大好きなうさぎちゃん、下品ラビットだ。
突然だが、あんたは映画を見るかい。
なるほど結構。じゃあ、いつも映画を見るのはなんでだい。
ひまつぶしのためか。おもしろいお話だからか。お気に入りの役者がでているからか。流行っているからか。それとも、映画が好きだからか。
理由はいろいろあるだろう。そして、どれか一つと決めることはできないだろう。
あえていえば、映画という娯楽に親しみがあって、それにふれることでなにかを得られると思うからじゃないか。ひとときのひまつぶしを。娯楽としてのおもしろさを。お気に入りの役者の活躍を。流行にふれたという実感を。そして、好きなことに時間を使っている快楽を。そういうものを手に入れるために映画を見る。違うかい。
そうだとして、しかし、あんたはその予測を、映画は自分に望むものをあたえてくれるものだという思いこみを、どこで手に入れたんだろうな。
子供の頃に見たテレビの洋画劇場か。親に連れていってもらった劇場でか。誰かからの推薦か。それとも、ただなんとなく、だろうか。
今回取り上げる映画、『キラー・インサイド・ミー』を見たのは、原作を読んだことがあったのと、ヒロインの一人がジェシカ・アルバだったからだ。
原作はジム・トンプソンの伝説的犯罪小説『おれの中の殺し屋』。『内なる殺人者』なんてタイトルで邦訳されたこともあったが、「おれの」って言い方の粗野な感じが好きだな。
舞台となる、一見平和な田舎町は、保守性な内圧に喘いでいる。誰もが知り合いで、互いに優しく、親しく、監視しあっている。主人公の保安官も、そういう町にふさわしい「いいやつ」。上役の言うことを聞き、不良少年の親に信頼され、保安官としての務めを果たしている。
しかし、その内側にはおぞましい人殺しが潜んでいた。町外れに住む娼婦に立ち退きを勧告しに行ったことで、ひた隠しにしていたおぞましい本性を明らかにする喜びを知った日から、主人公は次第に歯止めが効かなくなってくる。我慢をなくした男は行き当たりばったりの犯罪を繰り返し、遂には決定的な破滅へと坂を転がり落ちていく。
この「町外れに住む娼婦」を、映画版で演じるのがジェシカ・アルバだ。ちょっとサトエリ風の、たれ目が魅力的なチャンネーだ。おれはかつて地上波で放送していたテレビドラマ『ダークエンジェル』で彼女を見て、そのマンガっぽい容貌が気になってたんだ。最近では『マチェーテ』にも出てたよな。
彼女が立ち退き勧告にきた主人公をひっぱたいたことで、主人公の中に押さえ込まれていた暴力性が目覚める展開は、いささか唐突に感じられるな。
だが、続く彼女のぼてっとした尻がひっぱたかれるシーンは素晴らしかった。「安物雑貨屋のドストエフスキー」なんて呼ばれるジム・トンプソンの原作にふさわしい、パルプな尻だ。
この安っぽく生々しいスパンキングシーンから、二人の恋は始まり、その恋が主人公に数々の殺人を犯させるが、その第一の犠牲者こそ、「町外れに住む娼婦」その人であるのが驚きだ。
彼は他にもたくさんの人を殺す。それは計画的であったり、いきあたりばったりであったりする。だが、最初の殺人だけは、理由が不明だ。
愛していたはずなのに、大切に思っていたはずなのに、どうして殺してしまったんだろう。
気になったあんたは、最後まで映画を見続けてしまうはずだ。
主人公を、凶悪な連続殺人に駆り立てたものがなんなのか。
原作は主人公の一人称で語られる。おれが、おれは、おれの、と、すべての出来事が主人公の視点で語られる。もちろん、数々の凶行に及んだ心の動きも。そのあさはかさ、薄っぺらさ、行き当たりばったり加減が、かえって普遍的な「人のあさはかさ」を感じさせて、共感したくなくとも共感させられてしまう。しかし、この一人称は、よく言われる「信用できない語り手」として読むこともできる。映画版は、どちらかというとこの読み方を発展させているな。つまり、映画という「なにもかもが目に見える」客観性によって、主人公も気づかない真の理由を探るという試みを、おれたちに見せてくるわけだ。
そのことが示唆される終盤、病院のシーンは見逃せない。これまで浅はかではあっても、一貫した現実的な思考に則って行動していた主人公の前に、一瞬だけ現れる不可解な「もの」。
それを見た時、おれたちは、この映画がそれまでちょいちょい見せてきた主人公の過去を思い出して、これこそが理由なんじゃないかと思って、ぞっとするんだ。
理由、理由。人間は理由が大好きだ。もちろんおれたちうさぎもな。
おれたちはいろんなことに理由を求めるが、しかし、それはなぜだろう。
答は簡単、おれたちは記憶を持っているからだ。
自分の身に起こった出来事。自分というフィルターを通して知り、感じ、考えた物事。それら「かつて起こったこと」を、おれたちは記憶という。
この時点で、記憶は時系列の把握と切り離して考えられないことはわかるよな。記憶とは「今」ここにいるおれたちが、背後を振り返ったとき、長く延びるわだちのそこかしこにおったてられた標識だ。連なる標識を点としたとき、おれたちは標識と標識を見えない線でつなぐ。そうして標識の近さ遠さを考える。
この時系列に沿った記憶の把握こそが、おれたちに理由を考えさせる。「それ」があったから「これ」があり、「これ」があるから「今」があるという把握のしかたこそ理由なんだ。
では、そういう理由を俺たちが好むのはなぜか。
安心のためさ。「今」ここにいるおれたちが、おれたちであるという安心感。ほかの誰でもない、おれであるという究極の安心感こそが理由だ。
キリスト教では「神は光だ」というそうだけど、これもそういう「安心」のことを言っているだろう。光とは闇を照らし、ものの形を明らかにするものだ。光なくして、人はなにかを「これ」だと特定することはできない。闇の中では来し方行く先など判然としない。
そしてもちろん、光とは言葉でもあるよな。言葉が「これ」と「それ」を分けるんだから、「光あれ、と神は言った」なんてレトリックは、けだし名言と言うべきだろう。
だが、理由は安心感だけを与えてくれるものだろうか。
記憶はよいものばかりとはかぎらない。つらい記憶、悲しい記憶、おぞましい記憶もある。
それはこの世がつらく悲しくおぞましいものであふれてもいるからだ。そういうものにふれずに生きていくことはできないし、ふれた記憶がなければ、未来に現れる同じようなものを避けることはできない。
だから、おったてておくべき標識は、危険を知らせる信号であるともいえるよな。
そして、ここが肝心なんだが、記憶の価値は、この「危険を知らせる」の方に重きが置かれている。
だから、おれたちはつらく悲しくおぞましい記憶を排除できない。過去のある出来事と通じる状況が繰り返されたとき、同じ悲劇が繰り返されないよう、過去の記憶が甦る。楽しかったりうれしかったりした記憶も甦ることはあるが、どちらかといえばこの「危険を知らせる」信号の副産物であるようだ。
そう、理由の探求は、苦痛や、悲嘆や、恐怖を呼ぶこともあるんだ。思い出したくない過去に紐づく事態に直面し、フラッシュバックが起こったことはないかい。悲しみが繰り返される予感に怯えたことはないかい。自分が恐ろしいことをしてしまったことを思い出し、安心できない自分をみいだしてしまったことはないかい。
以前、『ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス』て映画の感想で、おれは「過去は変えられないし、変えてはならない。過去を否定することは、今の自分を否定することになるからだ。」と書いた。
標識をどう受け止めるかはひとそれぞれ、ケースバイケースだ。苦しい記憶が未来を開くこともある。楽しい記憶が選択を誤らせることもある。だが、記憶は自己を確立するのになくてはならないものだし、自己を自己として尊ぶ上で、記憶の影響を逃れることは出来ない。悪い記憶も必要なんだ。
人は、悪い記憶を無視したい。辛く苦しいことは避けるべきことだから辛く苦しいんであって、自分の中に止めておきたくないのは当然だ。つらい過去が今の自分を作ったと、認めるのはきついことだ。
だが、記憶が標識だとすれば、標識のない道ほど危険なものはない。標識がなければ、どこに行けばいいのかわからない。危険を避けることも出来ない。いきあたりばったりの道行きにしかならない。
辛く苦しくても、標識は見つめなければならない。どんなに辛く、苦しくてもな。もし標識を見逃し続けたら、いつか破滅が待っている。
そう、『ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス』や『キラー・インサイド・ミー』のような、暗い過去と破滅の誘惑に満ちたノワール作品とは、記憶から逃れようとするものたちの物語だといえるかもしれない。
舞台となる町は、過去に起こった悲惨な事件をもみ消した。主人公は過去に起こした事件を他人になすりつけた。結果、すべては破滅を目指して転がり落ちていくことになった。みんながみんな、つらく悲しくおぞましい真実に向き合うことができなくて、うそで覆い隠している。その結果、危険を知らせる標識を見落として、角を曲がり間違える。
1940年代の中西部を舞台にしているからという以上に、この映画は主人公の運転シーンが多いのもそのためかもな。
だからこそ、たった一人、記憶から、過去から逃れようとせず立ち向かった者が、この物語でたった一人「正しい場所」にたどり着く。その人物は、愛を知り、沈黙を貫いた人物だ。
ということは、これもまた、「愛と沈黙」の物語であると言えるだろう。
あんたはどっちだろうな。過去から逃れたいからそうするのか、逃れたくとも踏みとどまって立ち向かうのか。
おれか。おれはたぶん、あんたとおんなじだろう。
いや、おれやあんただけじゃない。みんなそうなんだ。過去のある時点で、ねじまがってしまった道の上を、せめて角を曲がり間違えないよう、おっかなびっくり歩くしかないのさ。
おれたち、みんな。
(下品ラビット)
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