「社会にとって役に立つかどうか」って誰がジャッジするの?~「じぶん本位」の勧め~

若いときの海外生活から戻ってきて、日本や日本人を改めてみてみると、「資本主義とされている日本って実は社会主義国家なんじゃね?」って思うことがままある。少なくとも、同じ資本主義であるアメリカとは全然違うように感じる。

どうしてそのように感じるのだろう。

競争が激しいか激しくないか、弱者救済の制度が充実しているかどうかというソフト面もそうだけど、一番大きいのはやはり思想という、ハード面なのではないだろうか。

例えば、日本に帰国してからもしばしば聞かされる「社会の役に立つかどうか」というこの言葉。

この言葉をきくときも、個人的に違和を得ることが非常によくあるのだ。

この言葉、職場にいる先輩の先生なんかは、「一生懸命勉強して将来社会の役に立ってね」って生徒に話していたりしたこともあるし、社会に出ると「貴方は社会にとって必要とされる存在ですか?社会の役に立っていませんか?」的な価値観の押し付けみたいなのが、悪びれもなく当たり前のように行われている。

ではそもそも、「社会の役に立つ」「社会に必要とされる」ってどういうことだろう。よくよく聞いてみると、話している人間だってきちんと定義づけできてないように思われる。一体、何をもって誰が「社会の役に立つ」とか「社会に必要とされる」など判断しているのだろう。そもそも、この「社会」って何?どの社会のことをいうのだろうか。

一般的に、日本人の価値観のなかで社会に役立つっていうのは、「仕事をしていて他の人を楽にさせている」とか、「納税をしている」とか、そういう風に考えられている風に思われていることが多いと思う。

ある視点から見たら、それは確かにまっとうで、正しい生き方ではあると思う。

一方、自ら「労働」を放棄することを選択した人たちがいる。

怪我や病気で、働きたくても働けなくなっている人たちもいる。

生活力がなくて、高額な税金を納められない、あるいは納めることが困難な人たちもいる。

現代の日本の社会の中を少し見ただけでも、現実には多様で複雑なライフスタイルや価値観で生きている人たちがたくさんいる。

「勤労の義務」「納税の義務」をきちんと遂行している人たちが、「社会にとって役に立つ」とか「社会にとって必要とされている」というのならば、それらができていない人たちは、文字通り、「社会にとって不必要・役に立たない存在」となってしまう。

「社会にとって必要なもの・役立つもの」、これを「勤労」や「納税」以外の言葉に置き換えてみることもできるだろう。

例えば、「子どもを(たくさん)産んで子孫を反映させることが社会にとって役に立つことである」

→では、病気や様々な理由で、子どもを持てない夫婦は社会の役に立たないことになる。

「専門職(例えば、弁護士や公務員)や官僚になって、その人しかできない仕事で世の中を回すことが社会にとって役に立つことである」

→専門職ではない人たちは少し訓練をすれば誰でもできるような仕事をしているので、替えはいくらでもいる。つまり、社会の役に立っていないことになる。(そもそも、「専門職」「一般職」という言葉自体が、あんまり好きではないのだが、これに関しては私自身思うことがあるのだが、今回は話の本筋からずれるので省略)

ちょっと”社会”の定義を変えたり、文言をかえただけで、この「社会の役に立つ」なんていう言葉はいくらでも濫用できるようになるわけだ。

その一方で、どんなに言葉を変えてみたり、定義をし直してみたところで、それにそぐわない、つまり、当てはまらない人たちというのがでてくる。

「社会にとって役に立つか立たないか」という価値観は、そうではない部類に属する人々にむかって、「あんたたちは社会にとって役に立たない存在だ」と、ぴしゃりと、冷たく言い放つことになるのだ。

何を基準にするにせよ、人が役に立つか役に立たないか、という視点で判断する視点は、有利性や合理性を優先させる、いかにも富の分配を最優先にさせる資本主義的な考え方だと思う。そうして、そういう近代的な価値のもとでは、役に立たない存在、利益を産み出さない存在は、不必要とされ、はじめから存在しないもののように扱われるか、あるいは本当に存在を消されてしまう。

さらに、「個よりも‟社会”という全体」を重視する考え方。これは日本人のものの見方・考え方に広く見られる傾向だけれども、社会主義の地域でしばしば発生する「全体主義」と根本原理だと思えないだろうか。

やん×2には、いずれの考え方もひどく非人間的な考え方だと思う。

さきに、日本は社会主義的資本主義国家なのでは?とやん×2が述べたのは、こういうある種日本人独特の、有利性・合理性と全体主義が結びついているところからくる違和感から来ているものなのかもしれない。

どんな方法であれ、社会に役に立つかどうか、社会に必要とされる存在かどうかという基準でその人間の存在価値を決めてしまうというものの見方、考え方は、その基準にそぐわなかった人たちは自動的に役に立たない存在として認定されてしまう。

それが結局、その人たち自身の「自己肯定感」を低下させて、生きづらさを抱える人たちを増やすことにつながらないか、という心配事がそこには生まれる。

だからこそ、自分の生きる根本の在り方の基準を、「社会にとって必要かどうか」「社会に役に立つかどうか」ではなくて、「”じぶん”がどうしたいか」「”じぶん”がどうありたいか」ということにシフトしていくことが大切なのではないだろうか。

やん×2はそれを、「じぶん本位」といっている。

自分の人生の所有者は自分である。赤の他人はもちろん、親兄弟であっても、自分の人生を所有し、責任を持つことなんてできないのだから。だからこそ、日本人はもっと「じぶん本位」に生きても良いのではないだろうか。

‟わがまま”ではなく、‟あるがまま”に自分に正直に生きること。これが本当の「じぶん本位」に生きることだと思う。



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