日帰りドイツ音楽の旅
春先は、日帰りドイツ旅行の準備に夢中でした。
「日帰りドイツ旅行」とは、私の住む街で5月に開催された「ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団」コンサートのことです。
「クラシック音楽のコンサート? 高校生の頃行ったけれど、退屈だったよ~」と、しぶしぶ夫に同行したのが20年前。
プログラムは、クリスマスが舞台のチャイコフスキー「くるみ割り人形」。退屈しないよう、曲と物語のあらすじを確認してコンサートに挑みました。
するとどうでしょう。美しい音楽がホール中に響いたのと同時に、雪が舞うおとぎの世界が目の前に出現。
退屈するどころか、めくるめく夢心地の時間を過ごしたのでした。
事前の準備が功を奏したのです。
その後も「北欧の美しい大自然の中にワープした」「広大な大地に沈む、真っ赤な夕陽を見た」等々、コンサートホールにいながら、様々な旅を体験。今では、オーケストラの生演奏の虜になりました。
コロナ禍で、オーケストラのコンサートは3年振りです。
しかもベルリンの名門オーケストラの演奏。日帰りドイツの旅だ! と喜んだものの、海外オーケストラのチケットは高額。1番良い席は1泊2日温泉旅行相当。さんざん悩んだ末、日帰りバス旅行相当のチケットを購入。
財布の紐を緩めた後は、素晴らしい旅にするべく、準備に勤しみます。
旅のスケジュール(当日のプログラム)です。
プログラムに名を連ねる3人は、19世紀ドイツロマン派を代表する作曲家。さっそく「ロマン派」をリサーチします。
ロマン派の時代は19世紀。日本の幕末から明治時代の頃。
フランス革命、ナポレオンの栄華と衰退、近代国家の形成、産業革命による工業化、と激動の時代。ミュージカルや映画で有名な「レ・ミゼラブル」のイメージです。混乱した世の中で、人々は理想の世界を夢見ます。
キーワードは「夢と憧れ、愛と不安、理想と失望、個性と自由」。
J-POPの歌詞に出てきそうな言葉ではありませんか。
19世紀の作曲家も、21世紀のJ-POPのアーティストも、音楽で表現したいことは同じ。現代に生きる私たちと、心通じるものがありそうです。
続いての準備は、サブスクでプログラムのプレイリストを作成。
聴いてみました。
3曲とも、重厚で深い音楽は「ドイツ」という感じです。
「ロマン派」の名の通り、ロマンチックなメロディもたくさん。
速くなったり、遅くなったり、悲しい感じになったり、楽しい感じになったりと、音楽の表情の変化はわかるものの、どう聴けばいいのやら。
コンサートをきっかけに、初めて知る曲、名前だけ知っている曲が殆どの私。街の名前しか知らないのに、地図を持たない、間抜けな旅人になりそうです。
そんな旅人を助けてくれるのが、旅のガイドブック。作曲家の伝記やクラシックの名曲解説本に目を通して、人物や曲の背景について調べます。
ウェーバーは、旅回り劇団の座長の子として生まれました。
若い頃から才能を発揮するも、劇薬を誤飲して喉をつぶしたり、常識外れの父親のせいで投獄されたり、女優に騙されたり、と不運の連続。
ところが、結婚を機に運が好転、宮廷楽長に大出世します。しかし幸せは長く続かず、結核に侵され39歳で天に召されます。
「魔弾の射手」の主人公は、恋人と結婚するため射撃大会で優勝したい猟師。森に棲む悪魔の魔弾を手に入れ、射撃大会に出場するも悪魔の呪いで失敗。罪を告白した猟師は「たった一度の過ち」と、領主から1年間の執行猶予という寛大な裁き。結婚も許され、めでたしめでたし、の物語。
ウェーバー幸せの絶頂期に作ったハッピーエンドのオペラは、鬱憤だらけの人々の心を潤し大ヒット。後継の作曲家にも大きな影響を与えたこの作品は、ドイツオペラ不朽の名作になったのでした。
幼い頃から音楽や文学に親しみ、詩のような美しい音楽を作ったシューマンも、少年の頃「魔弾の射手」に感激した1人。
作曲家以外に、音楽評論雑誌の編集長も務め、音楽の啓蒙と若手の応援に尽力した功労者でもあります。
大恋愛の末に結ばれた、天才ピアニスト・クララとの結婚は、今でいう「格差婚」。素晴らしい作品を次々と発表し、格差は縮まっていくものの、妻の才能と人気に嫉妬し、苦悩する繊細な一面も。
仕事での人間関係と精神の病に悩まされていたシューマンは、43歳の冬、ライン川に投身自殺。
一命を取り留めるも、精神病院で45歳の生涯を終えます。
命が尽きるまで、音楽と妻と家族のことを愛し続けたシューマン。
純粋過ぎた天才の悲しい最期に、思わず泣いてしまいました。
投身自殺の前年、シューマンは素晴らしい才能を持った若者に出会います。20歳のブラームスです。
「音楽を天職として定められた人間現る」とシューマンはブラームスを音楽評論誌で絶賛。これを機に人々に知られるようになりました。
しかしその翌年シューマンが自殺未遂。義理堅いブラームスは、シューマンの妻子を助けます。いつしか14歳年上のシューマン夫人、クララと相思相愛に。しかし二人は結婚することなく、精神的な繋がりを持ち続けたのでした……という美談は有名です。
ブラームスは、勤勉、自己批判が強く、頑固、質素倹約な人物、として知られていますが、恋愛に関しては、惚れっぽくて優柔不断。
婚約寸前まで行って破談になったり、クララの娘に恋したりと、知られているだけでも、4人の女性に思いを寄せていたことに驚きます。
美談が台無しかと思いきや、クララが76歳で亡くなった翌年、「本当に愛した女性を失った」と、後を追うように63歳で亡くなるのでした。
伝記には、作曲家本人が書いた手紙や日記も引用。日々の喜びや悲しみ、挫折、愚痴まで書かれていて、人間臭さを感じるとともに、実在していたんだ……という実感と親しみが湧いてきます。
人物を知ることで、曲にも感情移入できるようになってきました。
そして、待ちに待った「日帰りドイツの旅」当日。
客席は、着物姿の夫人やセーラー服姿の女子学生、カジュアルなファッションの若者、お出かけ服の老夫婦、と様々な人々が、開演を待っています。
日帰りバス旅行の席は3階。ステージは遠く、しかも3分の2くらいしか見えません。聴こえる音に変わりはなし、と自分を慰めます。
開演のブザーが鳴り、ステージ上には、美しい楽器を手に、黒のスーツやドレス姿のエレガントな楽団員たちが揃いました。
幼少の頃から音楽を学び、厳しい修行を積んだ、音の職人の皆さんは、音楽の国ドイツの宝です。
続いて指揮者登場。クリストフ・エッシェンバッハさんです。
83歳の巨匠は、威厳あるスキンヘッドがトレードマーク。
髪がふさふさだった1960年代は、イケメンピアニストとして、日本の音大生女子に大人気だったとか。
50年前の女子大生が、昔のアイドルに会いに来ているかも……とキョロキョロしているうちに、1曲目の「魔弾の射手 序曲」が始まりました。
オーケストラの音が会場中に鳴り響いた途端、ホールは、中世ヨーロッパの深い森の中と化します。素朴な中世の人々、悪魔、射撃大会の緊張感、そしてハッピーエンド。あっという間の10分間でした。
コンサートの幕開けを飾る華やかな演奏に、割れんばかりの拍手です。
続いてシューマン「ヴァイオリン協奏曲」。
ソリストは世界的に活躍する五嶋みどりさんです。11歳でニューヨークフィルとの共演で華々しくデビューした途端、「天才少女」として世界中で有名に。20代はうつ病や摂食障害に苦しんだこともあったとか。
40年前、羨望の眼差しでテレビを見ていた私も彼女も、酸いも甘いも体験した50代に。お互いの人生を労うような気持ちで、美しいヴァイオリンの音色に耳をすまします。
シューマンが投身自殺の半年前、わずか2週間で書き上げたこの曲。苦悩と絶望、そして音楽に希望と救いを見出した心の内が現われています。
激しくも優しく、悲しくも美しく、慈愛に満ちたみどりさんの演奏。
シューマンの成仏を願っている「音楽の観音様」に見えてきます。
40年前の天才少女は、天才を超えた、高いステージに上っていたのでした。
20分間の休憩です。
トイレで用を足し、ホールの扉の前に戻ると、清楚なワンピースの若い女性と、パナマ帽に麻のスーツの紳士のカップルが。
彼女がホールに入るまで、紳士は扉を抑えてエスコート。映画のような2人に見とれていたら、後ろに続く私にも「どうぞ」と笑顔の紳士。
予想外の親切に慌てた私は、背中を丸め「ごめんなすって」のポーズで扉をくぐったのでした。
普段遭遇しない人々との出会いも、旅の楽しみです。
休憩も終わり、いよいよ本日のクライマックス、ブラームス「交響曲第1番」が始まりました。敬愛するベートーヴェンに捧げるべく、20年の歳月をかけて完成した曲です。
1楽章の始まりは、葬送行進曲かと思うほどの重苦しさ。ベートヴェンを意識しすぎた20年間の年月の重みなのか。オーケストラに、ブラームスの魂が乗り移ったようです。ホール中に響く、音の圧力と気迫に圧倒されます。
がらりと変わってロマンチックな2楽章。コンサートマスター日下紗矢子さんの美しいヴァイオリンソロに会場中がうっとり。
うっとりしてる間に2楽章、3楽章が終わり、最終章の4楽章となりました。
途中から神々しいホルンのメロディが鳴り響きます。クララの誕生日に贈った曲です。浮気なブラームスに嫉妬することもあったクララ。このメロディを聴いて安心したことでしょう。幸福な気持ちになる音楽です。
素晴らしいオーケストラの演奏に聞き惚れているうちに、終焉が近づいてきました。曲を完成させたブラームスの喜びがあふれています。素晴らしい演奏に、もっと聴いていたい、終わらないで欲しい、と心から思う私。
曲の終焉は、花火大会のクライマックスのように、美しい音の花火を上げ続けます。花火は何重にも広がり、ホール中に響きわたります。
最後の一発が上がりました。
コンサートホールに、最後の花火が大団円を描くように広がり、残響が火花のように消えていきます。
エッシェンバッハさんが指揮棒を下ろしました。
感動と賞賛の拍手が、ホール中に響きます。
演奏家はギャラよりも、観客の拍手が一番の報酬、とか。
「素晴らしい音楽の旅をありがとう」と、感謝をこめて、力いっぱいの拍手を送りました。そして、1月末に右手首を骨折したことを忘れていた私は、しばらく手首が痛い毎日を過ごしたのでした。
次の旅は11月。「広大な大地に沈む、真っ赤な夕陽」を見せてくれたオーケストラがやってきます。
今度は何を見せてくれるのでしょうか。ゆっくり、旅の準備を楽しみます。
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