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善事も一言、悪事も一言 capter2 『南方成子の結婚前夜』4

 昼間の暑さがまだそれほどでもなく、夜気にあてられたアスファルトの放射熱は、ミュールでよちよちと歩く足に届くころには、蓄積したはずの昼間の熱はおおかた失われて、温もりというよりもくすぐったさに変化している。路上の通気口を見つける度にあえてその上を歩くのはワンピースを風で持ち上げられたいからではない。むしろ細いヒールを鉄のマトリクス上に寸分違わず置いてゆくことが洗練された女のテクニックのように感じるからそうしているのだ。最初のうちはいくらか骨を折ったが、いまではもう足下を確認することもない。いつか痴漢に遭遇した時は相手の足の親指の付け根に目一杯の体重をかけてピンヒールを突き刺してやる。防衛というよりも、ぴったりと肌に吸い付いたワンピースの上に指が這い回ることも含めて、それはどちらかというと願望に近いのは自覚している。バッグの中の化粧ポーチにはアスピリン系の常備薬に紛れて、クラブの暗がりで知り合った事情通ぶった男からもらった錠剤がある。以前飲んだときにはあまり感じの良くないめまいがおきただけだったが、これを忍ばせて持ち歩いているだけで、なにか良からぬことをしている気になって、アメリカ映画でよく観る、あのドギースタイルの取調べを警官たち(もちろんアメリカンポリスだ)から容赦なく執行される自分の姿を夢想してしまう。身体をくまなく調べられたら、自分に関するもっと大きな秘密まで知られてしまうだろう。いまだって顔見知りの誰かとばったり出会う可能性もなくはない。しかし、いままで一度も見つかったことはない。後退した生え際はウィッグで覆い隠され、広がった毛穴にはファンデーションが染込んでしっとりとした質感をつくりだしている。娘が嫌がる加齢臭もいまはローズとマグノリアのリッチな花びらの下に隠れている。鏡を見る度に見違えるほどの自分にうっとりとし、この姿を誰かに見せねばという奇妙な使命感にかられ、山崎乾二郎は夜な夜な女の姿で出歩く。女の一人歩きは危険といわれるところほど進んで出歩く。彼が自負するほど完璧ではない変身と、秘かな願望と、正体不明の錠剤を持って。

「山崎部長。少しお話が」

 山崎は慣れ親しんだ肩書きに戦慄する。後ろを振り返ると成子が立っていた。

「み、南方君、いたのか。いつから?」

「会社の玄関あたりからです。駅のトイレでお着替えになるのも拝見しておりました」

「そうか。ずいぶんとまずいところを見られてしまったね」とあくまで部長としての応対は崩さなかった。「私の女装はてっきり誰にもバレていないものだと思っていた」

「キモイから声かけないだけです」

「たしかに女の君からするとキモイかもしれないね」

「いえ、残念ですが、誰が見てもキモイです」

「ふむ」と山崎は残念そうに呟いてから話の続きに戻る。「で、話というのは?いま、ここでしなければいけないような類いの話かね。出来れば着替えたいのだが。部下とは上司らしく話をしたいのでね」

「いま、ここで話さないと部長が私の申し出を断るかもしれないので、いまここでお話したいです」と言って携帯電話のカメラで撮影する。山崎はフラッシュとぴろりろりーんに面食らうが、すぐに威厳を取り戻す。

「君は女にしておくにはもったいないね」

「部長こそ男に生まれなければよかったですね」

「南方君。それは違うよ。私は違うと思うね。男は自分の人生に頼りなさを感じているんだよ。子どもを産むわけでもない、その気になればいつでも放り出せる社会的責任とやらしか手元にない。もし私が女ならこんな真似はしていないよ。適当に働いて、毎日の楽しみは気の利いたランチを摂りながら同僚とおしゃれや恋についてしゃべること。長い休みには旅行に行き、やがて満足のいく相手と結婚、そして子を産み、幸せな家庭を築く。セックスなしの浮気なら少しくらい嗜みたいね。死ぬときはたくさんの子や孫に囲まれて死ぬ。男にないすべてがある。こと、家庭生活に関してはね。いやいや余計な話だった。君のお願いとやらを聞かせてくれ。いまの私は君の言うことならなんでも聞く従順な下僕だ」と言い、バッグの中から例の錠剤を取り出して、舌の上にのせる。思っていたものとは少し違ったが、彼はこの状況を楽しんでいた。秘密の露見ほど甘美なこともあるまい。彼はこの時を待っていたのだ。あとはあの感じの良くないめまいがやってくればいい。

 夢の到来である。

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