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兄のこと

わたしには、亡くなった兄がいる。

わたしが生まれる1年前に、母のお腹の中で亡くなった。


ほっそりと美しい指をしていたそうだ。

父は白木のおもちゃを棺に入れたという。

母は病院にいたから、見送ることはできなかった。


小さい頃から、母と、兄のことをよく話した。

母の話を聞きながら、デパートに向かう父が思い浮かぶ。

色とりどりのおもちゃから、白木のものを選ぶ父がいただろう。

火葬場の煙が細くあがっていく。

よるべないという言葉が思い浮かぶ。



兄のことを急に思ったのは、昨晩3時に、ひどい夢を見たからだ。

その夢では、わたしはどうやら若い頃危ない任務についていたせいで、裏の社会から危険分子だとみなされているようだった。何のドラマの影響か。

思ったより身体が敏捷に動くから、どうやらほんとに銃を担いで仕事をしていたんだなと納得している間に、背後から撃たれそうになる。

慌てて隣にいた娘をドアの先へ押しやって、できるだけ早く先へいけ、と叫んで、起きた。

彼女の背を突き放し、手放した感触を覚えている。

あのドアが何だったのか、彼女がどうなったのか、顛末は分からなかった。


それで突然、兄のことをはっきりと思い出した。


近頃というか、近年というべきか、まるで迂闊な過ごし方をしていた。

兄のことを忘れていた。

しっかり思いださずに過ごしてきた。

兄は忘れていたことも、これまでの過ちもきっと咎めないだろう。

でも今、兄と目を合わせるのは恥ずかしい。

兄はとてもきれいな目をしているから。


今日からは、春の陽気を思うとき、兄を思いたい。

春は美しいだけではあるまい。

これからは、やさしい兄に会う気持ちで絵を描きたい。

風の中には、きっと誰にとっても、誰かが先回りして待っているのだろう。




一番上の写真は、松本竣介さんの作品集の1ページを撮ったもの。


松本竣介さんのデッサンを見ていると、いつも兄のような気がしてくる。

彼の人物デッサンは、子どもも女性も男性も、彼自身の顔をしている。

もしかしたら亡くなった息子さんなのかもしれない。

どこまでも透明で、松本竣介さんもそういうきれいな人だったのだろう。

彼も36歳で若くしてこの世を去ったが、青い青い、美しい絵を描く人だった。