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日記:人工的な感性でいいかな:2024.11.03

最悪な夢を見てめちゃくちゃ最悪な起床。鼻詰まりのような嫌な不快感が、朝の匂いを嗅げないようにしてるから気持ちを切り替えられないし、起きぬけの水道水もどこか新鮮みがない。ずっと残ってる。

家族や友だち、ゼミの先生、バイト先の人、もうすべての人から勘当されて、自分は子どもらしく泣きじゃくる。正座の状態でそのまま上半身を前に倒して両腕で顔を覆い隠す、皮肉にも土下座のような体勢で泣いてた。現実味のある夢は酷く恐ろしくて嫌だな。

本当に空虚と言っていい感情だったかも。大学生になったときにLINEとかTwitterとかSNSを消してリスタートしようとした。そのときのリセット症候群は後悔もあったけど晴れ晴れしさがあって、孤立ではあるんだけど一人で山を登ったような、その山頂の澄み切った空気感があって好きだった。

でも今回は、川に突き落とされるような、河川の混濁と意識の混濁と、コンタクトレンズは衝撃で流されて視界さえも強奪されて、身体の自由を拘束されたあの地獄絵図。山頂の澄み切った空気とは反対に、圧迫的な閉塞感と、濁りと淀み、川の味はひどく苦かった。

ネズミの希望実験のような感覚がした。水槽の中でもがいている左のネズミと浮かんでいる右のネズミの写真が有名なあの実験。

自分はどうだったかというと、左のネズミのように、じゃばじゃば水面を叩きながらもがいてた。それが、子どもらしく泣くという行為と一致するのか分からないけど、どこかに希望を見出していたのかも。

鬱って水の性質も持ってる。



・朝からめっちゃ気分が下がった。最近、日記が上手く書けない。精神的な調子が良いからかな。

noteもゼロからやり直したらどうなるんだろうって時々思う。自分の底が知られる前に存在ごと消してしまおう。もう既に底が見えてる気もするけど。



・短歌を勉強しようかな。言葉や文に鋭敏でありたい。それらに鋭敏であるためには、言葉を見つめると同時に生活を見つめることが大事だから、日常生活とか自分の感情にも鋭敏でいられるはず。

中原中也さんの『山羊の歌』を読み始めた。「汚れつちまつた悲しみに」が収録されてる有名な作品集。短歌ではなく詩だけど、読んでみたいと思った作家だから少しずつ読もうかな。

すこし話が変わるけど、文豪ストレイドッグスを観たいなぁってアニメが始まる頃に思ってから、でも文学詳しくないからな…でもう8年が経ってる。第1期が2016年ってすごいな。ヒロアカと同じだ。

自分の8年前だと人間椅子ってハードロックバンドを聴きはじめた頃。知ってる人はバンド名が江戸川乱歩の『人間椅子』から来ていることが分かると思うけど、江戸川乱歩、夢野久作、坂口安吾、と明治大正の文学にインスパイアされた楽曲も多くて、本を読むのが苦手だから、文学との接点は人間椅子の楽曲しかなかったかも。

でも今は昔よりは本が読める。昔なんて伊坂幸太郎さんの『重力ピエロ』を図書室で借りたら全然読めなくて挫折した。本、向いてないって。

でも今は昔よりは本が読める。詩だって読めるはず。夢野久作の『ドグラ・マグラ』だって読めたから。

話が逸れすぎだけど、勝手なイメージだけど中原中也は太宰治と似てる気がする。タバコとかアルコールとかの依存体質っぽくて陰鬱で、それでも奇麗な言葉を紡ぐ。米津玄師さんやamazarashiの秋田ひろむさんのような人かなって予想してる。それが文ストの解釈と違ったらもう泣くかも。



短歌は中村森さんの『太陽帆船』を読もう。

帆を揚げる会いたい人に会いに行くそれはほとんど生きる決意だ

はじめて感動した短歌。中村森さんの作品

たまたまTwitterで見つけた方で、この偶然を運命として短歌デビューは中村森さんの短歌集に決めた。

書店を何店舗か見たけど見当たらなかったからamazonで買う!ジュンク堂にないなら無いかな。積読本が30冊くらいあるけど、短歌集は別なのでセーフ。おそらく短歌は、心情や風景の辞書のようなものなので。



・朝に網戸から差し込む風が、ほどよく冷たくて鋭くなってきた。秋、好きかも。静かな湖の水面に氷が張ってパキッと音を立てる、あの瞬間のような心地。そんなに寒くはないけどね。

水が氷になるとき体積がほんの少し大きくなる。不思議だけど、水の粒子が身を寄せ合っている様子を想うと可愛らしいかもしれない。誰かといると心が大きくなったような気持ちになるから、粒子の心の増加分こそが体積の増加分。




・蒙昧無知や無学はどうしようもない事だから、せめて感性だけは、感受性だけは持っていたいなと思う。もう人工的な感性でもいいかな。

それはカメラを通した風景のように嘘かもしれない。言葉にすると嘘になるように。レンズや言葉のフィルターを通すと何かが残滓になる。それでも人工的なそれを搭載すれば観えてくるものが観たい。そのフィルターに張り付いた残滓こそが自分かもしれないと自己喪失の危機に戦々恐々とするけれど、色彩感のある感性が手に入るなら安いかもしれないし。



・鬱が去ったことに寂しさを覚えて、また鬱になりそう。鬱であることって自分の通常だったのかも。鬱が空けた穴と鬱が去ってできた穴の2つがあって、そこに寂寞が巣食うような。穴は寂寞で埋まっているけど、まったくもって空っぽだから、むしろより一層の空っぽを感じる。また鬱が来てくれないかな。


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