赤らひく子は居りませぬと言うとき洞(うろ)もつ樹のごと雨を見ていた (kiwa)

今から一年少し前、うたの日の『自由詠』でこの歌に出会った私は、心をぐっと掴まれた気がした。これを自由詠で出すということは生半可な言葉遊びではすまない思いをもって詠っている作品にちがいない。そして次のように評を書いた。「その人には、嘘を放ったのでしょう。樹のうろがその虚しさを演出しています。第四句は比喩にせず対象にした方がもっと臨場感あったかもと思います。」と。しかし、最近上梓された歌集では少し違った表現がなされていた。第三句以下が「と言うときに洞もつ樹として雨を観ていた」これは全く意味が変わってくる。うたの日バージョンでは、本当は子持ちなのに、好きな人の前で子どもがいないフリをする女心の葛藤が読みとれる。しかし歌集バージョンでは、子を持てないからだの主体が、自らを空洞ある(病んだ)樹木のようだと自覚しつつもどうしようもなく悲しんでいる姿が読み取れる。もちろん後者のほうがずっと良い。私がひっかっかっていた第四句の必然性のない比喩も解消されている。結婚していれば「お子さんは?」という質問にあうことも多いだろう。そんなときに、普段は気にしないで暮らしている(つもりの)痛みが顔を出すのである。ゆえに、この助詞の「に」も必須であろう。また、枕詞の「赤らひく」も、ただの添え物になっておらず、子のかわいらしさと事柄の重大さを引き立てて余りある。集中の代表作(わが子)として大切にしてほしい一首だ。


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