RUKA

るかです。狐の妖精です。 短歌と演劇を少々やっています。「うたの日」とかツイッターとかにいます。 推しは、加藤治郎と荒城真吾です♡

RUKA

るかです。狐の妖精です。 短歌と演劇を少々やっています。「うたの日」とかツイッターとかにいます。 推しは、加藤治郎と荒城真吾です♡

最近の記事

「あんたらは雪の心配なくていい」福島の母も宮城の義母も (加藤万結子)

人間が普通に生活するために、伴なってくる苦労や心配は、環境によって異なる。日本の中では食糧が得られない地域こそないだろうが、台風やら地震やら水害やら水不足やら雪やらは、地域によって深刻な場合がある。この歌の主体は夫婦で、雪の心配のない地方に居を構えているのだ。しかし、その二人の出身は、雪の心配のある福島と宮城であることがわかる。逃げたわけではあるまいが、過酷なふるさとに親を置いたまま、都会で暮らす若い世代の現実が見えてくる。その背景にある、双方の親の複雑な気持ちが、この一言で

    • 幸せなふりをしないで私なら襟の黄ばんだシャツは着せない(澪那本気子)

      「襟」の題詠作品である。私も「襟」という単語から連想するのは男性のYシャツの襟一択である。「衿」ではなく「襟」の文字に漂うタブーめいた雰囲気と、ビジネスシーンのきっちりした格好よさから、色気以外のものを感じないからだ。そういう意味ですでに、次席だったこの歌は首席の歌よりも遥かに魅力的だった。そこに加えて二句切れの命令形の潔さと、結句の否定形にあふれる意志の強さよ。そんな構成の完璧さに加えて、私には内容のディープな切なさが胸に響いてしかたない。襟の黄ばみがわかるのは、彼がシャツ

      • ご主人はおられますか?に留守ですといつもこたえる我が主人だ (だいだい)

        だいだいさんのツイートやノートを二年近く拝見してきて、私はほかの方への視線とは全く違う思いを抱いてこの方を見ている。そもそも詩人(歌人)は心弱く病みがちで、貧しくて、コミュ障で、自立とは程遠い(という偏見が少しある)。しかしこの作者はそれらの正反対をゆくハイキャリアなのだ。言葉のひとつひとつが強く、つぶやきひとつにも深みと説得力がある。これ以外の短歌作品も、現代の闇を見据えた社会詠やアイロニーに満ちた時事詠はもちろん、私的な思いについても透徹な観察力で己を俯瞰しているものばか

        • 駅前のイオン・西友はしごする父の愛とか売つてないかと (秋月祐一)

          第二歌集「この巻尺ぜんぶ伸ばしてみようよと深夜の路上に連れてかれてく」からの一首である。この歌集名自体が短歌になっているので話が複雑になるかもしれないが、この作者の作品は、“必ず誰かがいる”ところが特徴になっていると私は思う。主体以外の生き物が登場して主体との関係性を見せてくれる仕立てなのだが、そこには常にリアリティが感じられるから、この主体は作者なのだなと安心する。短詩の数々の中でも主体が作者であるものを私は短歌だと思っているから、そこに一致のないレプリカを認めたくない。作

        • 「あんたらは雪の心配なくていい」福島の母も宮城の義母も (加藤万結子)

        • 幸せなふりをしないで私なら襟の黄ばんだシャツは着せない(澪那本気子)

        • ご主人はおられますか?に留守ですといつもこたえる我が主人だ (だいだい)

        • 駅前のイオン・西友はしごする父の愛とか売つてないかと (秋月祐一)

          後輩がいつかできたら話したい失敗談が誰よりもある (おもち)

          うたの日の「ポジティブ」の題詠で詠まれた一首である。そこでは首席ではなかったが、私はこの歌を全短歌界のポジティブ詠トップ作品として推薦したい。もともとこの作者は、誰もが共感できるさりげない日常詠や職場詠のなかに、微笑ましく柔らかい部分を作ることに長けているのだが、これはその集大成といっても過言ではあるまい。歌意は解説するまでもなくそのままなのだが、こんなにストレートな表現はむしろ意外にむずかしいものだ。しかも決め手は上句である。「後輩がいつかできたら話したい」という五七五には

          後輩がいつかできたら話したい失敗談が誰よりもある (おもち)

          法律上他人であると決められて畔の外れの白彼岸花 (姿煮)

          この作品に触れるとき、本当は最初に文字で見てほしい。「法」「他」「決」「畔」「彼」「花」こういった蘂のような画を持つ漢字の羅列が並び咲く白彼岸花に見えて、もうすでに寂しい。自分で思っていたことと世間の常識が違うことは悲しいが、それが法律に決められていればもう逃げ場もないだろう。主体は愛する人と法律上は夫婦でもなければ親子でもない。戸籍なんてカタチでしかないのだからとは思うが、この疎外感は経験した者でなければわかるまい。それが「畔の外れの白彼岸花」の気持ちなのである。白い彼岸花

          法律上他人であると決められて畔の外れの白彼岸花 (姿煮)

          デートの日だけはラーメン飛んだシミまでもきみとの思い出になる (神保一二三)

          素直で単純きわまりない歌である。特別なひねりもなければ厳選された詩語もない。そこが良いのである。恋は頭でできるものではなく、理性の入り込む隙間はない。はっきり言ってバカになる時間がデートであり、記憶はお花畑なのだ。アバタもエクボという言葉があるが、まさにそれなので、シミは思い出である。このお花畑思考を少しも醒まさずにそっくり歌にはめることは、実は難しいのである。俳優が喜怒哀楽を生のまま演技に投影できるようなものである。シミまで嬉しく思えてしまうようなくすぐったい記憶は、恋をし

          デートの日だけはラーメン飛んだシミまでもきみとの思い出になる (神保一二三)

          いつもより空が近いね厚底のブーツで君の景色を歩く (哲々)

          なんとかわいらしいデートシーンであろうか。自分より10センチくらい背の高い彼氏と同じ高さになるような厚底ブーツをはいてはしゃぐ女のコの感覚を見事に表現している。この歌なら単品で♡をつけてしまうくらい好きなのだが、驚きはそこにとどまらない。なんと、この作者は女のコではないのである。時には青年、時には老婆、時にはオヤジ、時にはプレママ、おそろしいほど変幻自在に姿を変えるメタモル妖怪である(と私は思っている)。まぁ、歌謡曲の歌詞でも女心は男性作詞家の独壇(擅)場であるし、演劇の世界

          いつもより空が近いね厚底のブーツで君の景色を歩く (哲々)

          #加藤治郎 歌集『 #海辺のローラーコースター 』 #出版記念会 に行きます(*^_^*) と-っても楽しみです。豪華ゲストの批評会とパーティーもあるそうです。みなさんもぜひご一緒に!!! peatixから申し込めます。 #短歌 #批評会 #イベント #パーティー

          #加藤治郎 歌集『 #海辺のローラーコースター 』 #出版記念会 に行きます(*^_^*) と-っても楽しみです。豪華ゲストの批評会とパーティーもあるそうです。みなさんもぜひご一緒に!!! peatixから申し込めます。 #短歌 #批評会 #イベント #パーティー

          赤らひく子は居りませぬと言うとき洞(うろ)もつ樹のごと雨を見ていた (kiwa)

          今から一年少し前、うたの日の『自由詠』でこの歌に出会った私は、心をぐっと掴まれた気がした。これを自由詠で出すということは生半可な言葉遊びではすまない思いをもって詠っている作品にちがいない。そして次のように評を書いた。「その人には、嘘を放ったのでしょう。樹のうろがその虚しさを演出しています。第四句は比喩にせず対象にした方がもっと臨場感あったかもと思います。」と。しかし、最近上梓された歌集では少し違った表現がなされていた。第三句以下が「と言うときに洞もつ樹として雨を観ていた」これ

          赤らひく子は居りませぬと言うとき洞(うろ)もつ樹のごと雨を見ていた (kiwa)

          君の目が持つ節穴へ使ってるコスメを全部ぶち込んでやる (紫央)

          「女の子は泣かないぞ!さぁ、反撃の時だ!」という言葉が聞こえてきそうである。恋をする女の子はみんな努力していてとてもかわいいのだ。わからないのは男どもである。こんなに時間をかけて念入りにメイクをしてもオシャレをしても、日本男児の目の節穴度合いはいつの時代もひどいものである。シャドウもチークもハイライトも微妙に計算して乗せても全く無駄なら、いっそ全コスメをブチ込んでやるしかない。この発想がすでに天才だ。ふざけているように見えて、本人はいたって真剣だろうし、全女子の本音を代弁して

          君の目が持つ節穴へ使ってるコスメを全部ぶち込んでやる (紫央)

          罰として夢に来なさいあなたしか飲まない冷やしたまんまのビール (ハリお)

          ひどい男にはいつだって罰が必要である。しかし、たいていの罰は与えてもこちらにいいことがあるわけではない。その点、この「夢に来なさい」という罰はスペシャルな名案である。主体はビールを飲まないのに、いつ立ち寄ってくれるかわからない「あなた」のために冷蔵庫に常備している。私自身はビール好きではあるが、カレのためだけに用意しているあれこれがあったから、この健気な気持ちは痛いほどよくわかる。完全に疎遠になっているなら処分もするが、思わせぶりな相手は、「今度こそ行くよ」「必ず近いうちに時

          罰として夢に来なさいあなたしか飲まない冷やしたまんまのビール (ハリお)

          銀の硬貨でむらさきの水購えり生殖ののちは逃げるのだろう(野口あや子)

          客観的な女性性あふれる歌集『眠れる海』の中でも、きわめてセクシーでいて悲しみのたゆたう一連『水の耳穴』からの一首である。身体感覚・皮膚感覚の表出を得意とする作者であるが、この歌は敢えてそれを封印して醒めた目線を作っているようで、たいへん目を引いた。シーンとしては、シティホテルの一室で行為をおこなう前(後とも解釈できる)に自動販売機コーナーでドリンクを買いながら、終わったらすぐに帰る男のことを思って不満を抱いているところであろう。「銀の硬貨」とは言っても本当に銀なわけではなく1

          銀の硬貨でむらさきの水購えり生殖ののちは逃げるのだろう(野口あや子)

          海辺の朽ちたローラーコースター遠く剥き出しの自由の女神が見える(加藤治郎)

          新刊『海辺のローラーコースター』からの一首だ。表題歌のひとつであり、素直に読ませてくれる写生歌にもとれる。私も行ったことのある長島スパーランドの白鯨がイメージなのだろうと想像できるし、その風景を詠んだ一首としてもじゅうぶんに魅力的だ。しかし、私にはそうは見えず、どこまでもエロティックな作者の性的感覚の現在の姿が描かれているように読めた。それは67ページあたりの一連と併せ読むとなおさらなのであるが、ローラーコースターはどこまでも性的快感の比喩かと思う。「朽ちた」と謙遜はされてい

          海辺の朽ちたローラーコースター遠く剥き出しの自由の女神が見える(加藤治郎)

          嗚呼夏の天才がいる後ろからわたしの頬にあたるカルピス (斎藤君)

          この作者はおそらく何かの天才なのだ。天才はセンスが格別なので、複数のことに長けていることもあるが苦手なジャンルもある。運動音痴の画家とか、恋愛はからっきしな学者とか、方向音痴の歌手とか。この歌の主体も、自分のセンスの及ばない「さわやかでキラキラの青春」ジャンルの才をみせつけてくる友人に完敗を認めている。「嗚呼」という初句の叫びには、全く歯が立たない遠さが出ていて、「夏」という括り方には、友情も恋もスポーツもルックスも全部持っていく相手(天才)の強烈さが出ている。教室か体育館か

          嗚呼夏の天才がいる後ろからわたしの頬にあたるカルピス (斎藤君)

          蛞蝓が殻を失い得たものは何だったろう印鑑を押す (桃園ユキチ)

          『 蛞蝓 』という題で歌が詠めるだろうか。ナメクジが這うとか溶けるとかボンベの裏にじめっといたとか、そんなことなら記録のように書きとめることはできるが、心を詠み込む歌にすることなど、そうそうできることではない。しかし、この一首はそんな前人未到みたいなことをやりおおせてしまったのだ。主体はおそらく「蛞蝓が殻を失」うように、何か拠りどころのようなものを失う経験をしたのだろう。その喪失には、「印鑑を押す」儀式が伴なうのであるから、離婚や退職など何らかの契約解除が考えられる。もちろん

          蛞蝓が殻を失い得たものは何だったろう印鑑を押す (桃園ユキチ)