デートの日だけはラーメン飛んだシミまでもきみとの思い出になる (神保一二三)
素直で単純きわまりない歌である。特別なひねりもなければ厳選された詩語もない。そこが良いのである。恋は頭でできるものではなく、理性の入り込む隙間はない。はっきり言ってバカになる時間がデートであり、記憶はお花畑なのだ。アバタもエクボという言葉があるが、まさにそれなので、シミは思い出である。このお花畑思考を少しも醒まさずにそっくり歌にはめることは、実は難しいのである。俳優が喜怒哀楽を生のまま演技に投影できるようなものである。シミまで嬉しく思えてしまうようなくすぐったい記憶は、恋をした人なら誰でも理解できる普遍的なものである。その普遍性と個別の体験との融合が実に見事にかなっていることがわかるであろう。これに近い成功例は、俵万智氏の「思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ」であろうが、それ以上に神保作品のほうが具体性の高さにおいてはまさっている。また共通点としては、句割れ句跨りの巧みさもある。「日だけ」「シミまで」というとことを跨がせたことによって、強意の副助詞が何倍もいい仕事をしているのだ。「デート」と「きみ」のイメージの重複さえ除けば俵作品よりも名作になると言えよう。こういう歌を見逃すうたの日の民、少しもったいないですよ。
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