器量と度量 教育とリーダー論北九州版
所謂、知識を多く持つ人。
例えば政治、経済評論家、先生稼業に学者や文化人。
彼らの多くは、知識をテレビで語る。
「過去にこういうデータがあるから、将来こうなるに決まってるじゃないですか」。
そう誇らしげに言う。
そういう言葉を聞く度に、悲しくなる。
そうなるわけないだろう、と思いやはり彼らの予想は外れる。
如何にもそれなりに聞こえるが、歴史に学ばず、己の浅学で、一つ特化した事にデータや数字、年号を並べ、最もらしく断言する。
過去のデータをスラスラ言えるのは、人間に取りあまり必要とされぬ記憶力がいいだげで、本当に大切な創造力はない。
厄介にも、競馬の予想屋の様に能弁さも持ち合わせてる人は、責任を取らなくて良い事を知っているので、テレビでしたり顔で語る。
じゃあどうすればいいかとなると、答えを持ち合わせていない。
これは無責任であり、私欲と無駄であると思う。
今、北九州市長選で、私は武内和久という候補を私は押している。
そこで「心理学のコーチャン」と異名を取る私(笑)。
最近、つぶさに感じた事を列挙する。
先日、武内候補と我がオフィスで、ある話になった時、彼は私の同志の話を真剣に聞き、時に質問しメモを取る。
時に意見を言う。
私の同志が「そのやり方は無理なんです」等と言うと対案を出し、徹底して聞き役になり考え、ある程度の道筋を立て持ち帰った。
私が横から馬鹿な事を言うと、笑う事もせず同志の話に聞き入る。
つまり彼は、相手に力があるとかないという、人の峻別をせず事に向いているなあ、と感じた。
北九州のやらねばならぬ課題を、真剣に吸い取っていた。
次に彼はあの若さで、物事に動じない。
出来る出来ないは言わず、まず考える。
泰然としていた。
無理、と言う言葉は使わない。
ここにネガティブな思考を嫌う、ポジティブな人となりが見えた。
器量がある彼に、何が何でも北九州市長になって貰いたい。
まるで、人を相手にせず天を相手にしている様であった。
若いのに度量も持ち合わせている事は、初めて会った時も、この日も、Facebook等で彼の文章を読んでも分かる。
彼の東大法学部という肩書きは、市長選には何の役に立たない。
人物はどれだけ苦労し、それを苦労と思わず生きているか、で器は決まる。
そういう人は一度は叩かれる。
叩かれて叩かれて、人の本性は決まる。
きっと何度か地獄を見たに違いない、と思ったがどうだろうか。
私はこの年になり、まあまあ器量人、と人様に言われ出した。
今は度量を身に付ける様、勉強している。
私は、一生かかろうが笑われようが、勉強していく。
勉強とは師、反面教師、師友、親友、心友、信友を必要とする。
思えば2年ほど前。
「北九州を変える!」と言い続け走りやはりか、と思う事もある。
上っ面だけでついてくる人。
自分が上手くいけば、上手に距離を取る人。
いい汁が飲める所に逃げ、そこにしがみつく人。
今にならなくても、こうなる事は薄々分かっていた。
しかし最初からそうなるからやらない、とは思わなかった。
私は北九州を変える事を第一義とし、決してこれを商売をしてるのではない。
世の中は不思議なもので、私の行動を陰で見て、お手伝いをしようという人。
私なぞ、一生縁のないと思っていた人、企業が、後押しの用意をしてくれる様になった。
「私は私自身を信じる」。
これが私の揺るぎない信念である。
この信念さえあれば、裏切られただの、いい時ばかり付き合う人は、というつまらぬ事を、ついぞ思わぬ様になった。
北九州の改革には、まだ殆ど公表してない事もある。
いつか達成出きても、驕らず偉ぶらないよう出来るか。
そちらの方が大切だと思い、日々勉強をしている。
北九州市長が正しい権威を持てば、利権屋が大手を振る北九州にはならぬ。
良いプロジェクトはスピーディーに達成できる。
しかしそれだけに依存するのは、リーダーたる者の考えではない。
誰がどうであろうが、自分が正しいという思いを貫くと、正しい同志が近寄るという事は、儒学で学び、現在行動して分かった。
昼の北九州市長と、行政以外のリーダーが正しければ、自ずと同じ道に行くのが、維新の原理原則であると信じる。
癒着し、利己に走ると義も大志もなくなり、良い維新にはならぬ。
それをゆっくりと、時間をかけた方が良いことも、大器晩成の真の意味を理解しよく良くわかった。
その結果、正しく度量のある市長が出れば、より良い維新になるだろうと、最近強く思う。
今まで北九州市民も、市議も他人を攻撃し、1人でコツコツ何かをやり遂げようとした人を、私は一握りしか知らない。
村会議員から大臣の選挙まで、私は何故か縁があり手伝い、36年になる。社会党左派から自民党、無所属と全て見てきた。
偉大なリーダーと、それに志を同じくする善が一体とならねば、利己的な社会が生まれる。
そこには独裁と利を追うのみになり、真の進化はない。
私は依存しない。
しかし人に頭を下げ、お願いはする。
その上で自分がまずやる。
私如きに集まる、ごく一部の北九州市を真に憂う人と企業。
その行為を陰で手伝いたいという企業や人と、週の半分を過ごす。
私はこれを続ける事が、今行う子供の教育にも、活きてくるから嬉しくて、更に勉強するモチベーションとなっている。
いつの世も善は弱い。
何故か最近、善人が北九州市に増え出した。
北九州には追い風が吹いている。
企業経営者は、特にこれを感じている。
この風を絶やさず、誰が偉いだの俺のお陰だと言う事があってはならない。
そういう長老は、もう北九州にはいらない。
老兵は去るから、若者が老兵を労わる。
そんな社会がいい。
真の街づくりは歴史に学ぶだけでなく、いかにそれを正しい行動に移し、継続するか。
トップに立つものが、いつ退くタイミングを考えるか。
北九州も企業も日本も、組織である。
度量人が器量人を上手く任用し、子供達を我々より素晴らしい度量人、器量人にしていく事。
そしてそれを継続していく重要さ。
今、我がボクシングジムでは、こう言う事を教えている。
まず、我が身をもっと変えねばならぬと思うと、引き締まるものだが、これが意外と悪くない。楽しいものである。
これはまるで、今を指して仰ってるとしか思えない。
我々はこの良心に応える義務がある。