見出し画像

源氏物語ー深い森のように尽きぬ読み処

(5)愛執の罪を背負った男女は仏教で救われたか

 冒頭の写真は極楽浄土を再現したと言われる京都府宇治市の平等院鳳凰堂です。仏寺として平等院が最初に建てられたのは千年近く前でした。もともとは光源氏のモデルの1人と言われる源融(みなもとのとおる・895年没)が所有していた建物を藤原道長が別荘とし、それを道長の子の頼通が譲り受けました。1052年に頼通が平等院を創建し、翌年に今の鳳凰堂に当たる阿弥陀堂を建立したそうです。1052年という年は、仏教が衰えて社会に混乱が起きる「末法」の世が始まった年とされます(別の年という説もあります)。自然災害や疫病が相次いで社会不安が高まるなか、死後の極楽浄土への往生を説く浄土教が人々の心を捉えていました。源氏物語が書かれたのはそんな時代でしたから、浄土思想など仏教に救いを求める風潮がストーリーに色濃くにじみ出ています。登場人物の心の苦しみと宗教による救いの可能性に焦点を当て、作者の紫式部自身の仏教観についても考えてみます。

1 変えようのない宿世
 源氏物語の基調になっている仏教思想は「宿世(すくせ)」です。人の運命は前世の行い=因縁によって予め決定づけられ、受け入れるしかない、という考え方です。
 物語で最初に源氏の秘め事の相手として登場する空蝉は、受領(ずりょう)の後妻になっている自分と源氏とのあまりに大きな身分の違いを理由に再度の逢瀬を拒否しました。源氏に惹かれながらも拒む気持ちが「いふかひなき宿世なりければ」<受領の妻であるのが変えようのない自分の運命なのだから>と表されています。

 源氏の生涯の想い人となった父帝の后の藤壺は、源氏との密通により懐妊したのを知ったとき「あさましき御宿世のほど心憂し」<どうしようもない自らの宿縁が限りなくつらい>と感じました。源氏と藤壺が生涯背負い続けた罪の意識が「宿世」として記されています。

2 宿世の苦しみは出家によって救われたか
 自分の運命は宿世と観念して変えようがない中、人々が救いを求めた手段の一つは出家することでした。
 源氏物語に描かれた女性達の出家は、男の愛執(仏教の言葉で、愛に心を奪われ断ち切れないこと)から逃れる方法でもありました。朧月夜は中年になった同士で源氏と15年ぶりの夜を共にした後、源氏に告げずに出家して男女の仲を断ちました。源氏の正妻として降嫁した皇女の女三の宮は、柏木との子を産んでしまった後、源氏との関係に悩んで22、3歳で出家しました。

 一方藤壺は、密通による子が生まれた後も迫ってくる源氏を避けるとともに我が子である東宮(後の冷泉帝)を守るため、29歳で突然、出家を断行しました。しかしその後37歳で世を去った後、半年余り経ってから源氏の夢に現れ「自分のことを源氏が紫の上と話題にしたことが耐えられず、冥界にさまよっている」と恨みを訴えました。
 死後さらに長期間、成仏できなかったのは六条御息所です。生前、七歳下の源氏の心変わりに苦しみ、生霊として源氏の正妻の葵の上を死に至らしめただけでなく、それから25年も経って今度は死霊として源氏の伴侶の紫の上に取り付きました。翌年の女三の宮の出家にまで死霊として関わりました。

京都市北区の雲林院
源氏が24歳のとき藤壺への愛執に悩み
この寺に参籠したと物語に記されている

 源氏自身は、自らの愛執を自覚する中で20代の若いときから何度も出家を思い立ちますが、老境に至っても最愛の紫の上への想いなどから出家できず、紫の上の再三の出家願いも最後まで許しませんでした。源氏が出家したのは紫の上を喪った後で、自らの死の2、3年前だったと記されています。

 こうした源氏物語の記述からは、出家をしても簡単には消えない男女の愛執の罪の深さが浮かび上がってきます。

3 霊験に掛ける願い
 源氏物語の時代に人気があったのが、様々な願いを叶えてくれる寺社詣でです。とりわけ奈良県桜井市の長谷寺は、本尊の十一面観音の霊験が中国にまで知られていたと源氏物語にも記され、「初瀬詣で」が盛んでした。
 母親(夕顔)と死別した後、九州で育った玉鬘は21歳のときに京都に戻り、歩いて長谷寺詣でに向かう途中、手前の椿市(つばいち)で休んだ際に偶然、夕顔の死後女房として源氏の家に仕えていた右近と再会します。観音のご利益(りやく)でした。長谷寺の境内には今も、会いたい相手との縁をつなぐ霊木「二本(ふたもと)の杉」が残っています。

長谷寺に今も残る「二本の杉」

 長谷寺は物語最後のヒロイン浮舟にとっても救いとなりました。入水自殺を図った浮舟が救出されて蘇生した後、取りついていた物の怪が「長谷寺の観音に(浮舟が)守られていたので退散する」と言ったと記されています。

4 紫の上と浮舟の人生から探る作者の仏教観
 作者の紫式部自身がどのような仏教観を持っていたかを推し測ってみたいと思います。その手がかりになるのは、紫の上の晩年の心と、浮舟の出家を描いた物語の終わり方、そして紫式部日記に記された独白です。
①紫の上の宿世観
 女三の宮が正妻として降嫁してきた後の苦悩から病に倒れた紫の上は再三、源氏に出家を願い出ましたが終始許されませんでした。紫の上が死に至る「御法(みのり)」の帖の冒頭に、出家を許されない身の上について、紫の上が源氏を恨むだけでなく自らの宿世のせいだと観念したことが、次のように記されています。
 
 わが御身をも、罪軽かるまじきにやと、うしろめたくおぼされけり。
<御自身の前世の罪障が深いために、出家も出来ないのではないかと、気になさっていらっしゃいます。> (原文は新潮日本古典集成『源氏物語』、現代語は講談社の瀬戸内寂聴訳より)

「源氏物語手鑑」御法 和泉市久保惣記念美術館蔵
(同館デジタルミュージアムより引用)
紫の上が人生の残りが少ないことを詠んだ和歌を明石の君に届けた場面

②出家した浮舟の生き方
 出口のない三角関係に悩んだ末に自死を図った浮舟は、宇治川の近くに倒れていたところを通りかかった横川(よかわ)の僧都に助け出され、京都郊外の小野の山里で心身とも回復した後、僧都に強く願って出家を遂げました。横川の僧都は、源氏物語が書かれたのと同時代の高僧・恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)がモデルになっているという見方が有力です。源信は『往生要集』を985年に著し、阿弥陀仏に祈ることによって死後に浄土で救われる方法を説いた人物です。
 物語では、出家させた浮舟が実は薫の愛人だったことを僧都が後で知って驚き、薫の愛執を晴らすためにも薫との縁を取り戻すよう浮舟に勧めました。しかし浮舟は薫と再び会うのを拒み、その後の展開は書かれないまま、長編の源氏物語は途絶えるように終わっています。
 このエンディングについては古来、さまざまな読み方が示されてきましたが、私は浮舟が自分の足で新しい人生を歩み始めることを作者が示し、その後どうなるかは読者の想像力に委ねたという解釈に共感しています。

③日記に記された作者の道心
 では、作者の紫式部はこうした紫の上や浮舟の描き方に何を託したのでしょうか。
 紫式部日記には次の記述があります。いつの気持ちを書き記したのかは不明ですが、自分が歳を取ったのを強調しているところから、源氏物語を全部あるいは半分以上書き終えた後のことかもしれません。

「歳もまた出家に似合いの年頃になって参ります。これからはひどく耄碌(もうろく)して、それに眼が霞んで御経も読まず、気持ちも緩みがちになってきますでしょうから、信心深い方のまねのようでございますが、今はとにかくこうした方面のことを考えております。それも罪業深い私ですから、また必ずしも叶(かな)いますまい。前世の拙さが思い知らされることばかり多くて、何につけても悲しく存じます。」(山本淳子訳注『紫式部日記』角川ソフィア文庫 より)

 自分の前世からの罪のせいで出家はまだ難しいと、自らの宿世として出家をためらう気持ちが表されています。この心情は上記①で引用した晩年の紫の上の心の中と重なり合う印象があります。出家に踏み切れない自分のたゆたいを紫の上に託したのかもしれません。
 これに対し、浮舟の出家と再出発を物語の終わりに書いたときには、もしかしたら紫式部日記の時点よりも出家に掛ける作者の期待が一歩進み、「女人往生」への望みを浮舟のその後に委ねたのではないかと推測します。

 逃れられない宿世を背負って悩み苦しむ男女の憂愁、そして愛執の「罪」が宗教によっても簡単には救われないことが、源氏物語を貫く主要テーマの一つだったのだというのが私の読み方です。

【今回の記事作成に当たっては、国文学の研究者による以下の三つの文献に特に啓発され、参考にさせていただきました。
・丸山キヨ子『源氏物語の仏教』創文社 1985年
・武原 弘 『源氏物語の認識と求道』おうふう 1999年
・鈴木宏昌 『源氏物語と平安朝の信仰』新典社 2008年 】

(当コラムの次回は12月13日にアップします。これらの内容も含め、源氏物語の幅広い楽しみ方を記した著書『源氏物語 —―生涯たのしむための十二章』(論創社)の発行は新年早々の予定です。紫式部についてもできる限り掘り下げてみましたので、お読みいただければ幸いです。)


いいなと思ったら応援しよう!