〇〇するべき論に振り回されると、生きるのシンドい
生きるのがシンドい、辛い、生きにくいと思っていた時期がありました。
実は、やんさんこれずーっと若い頃から思っていて、アラフォーになってやっとぬけだしたか?!となっているところです。
なんで生きづらかったのかというと、〇〇するべきって思いすぎていたのが原因なんじゃないかと気づいたのです。
■〇〇するべきが強すぎるってどういうこと?
〇〇すべきが強すぎる状況は、例えば
お店でドアを開けておいてあげたのに、お礼を言ってくれない!!
ムキ〜〜〜(●`ε´●)
会社で挨拶しても明るく返してくれない!!
ムカムカ(●`ε´●)
と自分がいつもやっているから、他人も同じようにやらないと許せない!!と怒りに満ちている状況だと思います。
若い頃を振り返ってみると、どんなに仕事がつらくてもきちんと挨拶していたし、
どんなに重い荷物を持っていても、お店のドアを開けてあげたりしていました。
挨拶するのも、ドアを開けてあげるのも基本いいことなんですよ。
でも、同じことをしてくれないと、いちいちキー(●`ε´●)となってしまい、自分を蔑ろにされたように感じてしまっていました。
そうすると毎日憂鬱で、元気がなくなるんですよ。これで若いころは鬱々していて、とても生きづらかったです。
なんでこんなになっちゃったのでしょうか?
■べき論に突入しちゃうのなんで?
べき論に突入しちゃうのは、だいたい余裕がない証拠です。
仕事は大変だし、育児も追われている、理不尽なことが起きてもがんばってやっている。
でも、だれも認めてくれない。
そういう思いが、べき論を強化していきます。
私は、ブラック企業にいる頃が一番べき論が強かったです。
あの人は、親切にしたのになんでお礼を言わないんだ!ドアを開けてあげたら、お礼をいうべきだろう!!
なんであの人は挨拶しても、笑顔で返してくれないんだ!挨拶したら笑顔だろう!!
私はいつもそうしているぞ!!
元気がなくても、余裕がなくても、挨拶は笑顔で返しているし、ドアだって荷物いっぱい持ってても開けてあげるぞ!!
だから、みんなそうあるべきだ!!!
こんなことを無意識に思っている。べき論は、自分にも他人にも厳しいのです。
自分がどんなに大変で、追い込まれても、〇〇するべきだ!!とまた自分を追い込み、
それが辛いので、人にも強要する。
べき論の人は、他人に厳しいようで、実は他人に対する期待値もすんごく高いんですよね。
強要するということは、他人も自分のようにするべきだ!という期待が高いということです。
しかし、ご存知のとおり他人は、自分が思っているようには行動してくれない。
それがべき論に突入してしまうと忘れがちで、いちいちキー(●`ε´●)となってイライラしてしまう。
他人にも自分にも厳しく、他人に対して期待値も高く、そしてそのとおりにならないと、毎日毎日イライラして、怒っているって…
そりゃ生きづらいし、疲れるよね。
だから若い頃の私は、だから生きるのがしんどかったんだな・・・。
■〇〇するべき論をやめるには?
ということで、べき論をやめるといいんだよな?となるけど、はて?一体どうやれば?
私は、まずは人に対する期待値を下げることからはじめました。
夫が頼んだ牛乳を買ってきてくれなかったとき、べき論の私だったら、牛乳もかってこらないのかよ?!?!とすぐ不機嫌になりますが、
まてよ、夫だって忘れちゃうことあるよな・・・と考えを切りかえました。
明るく挨拶してくれなかった人には、もしかして、忙しかっただけかもしれないよな・・・と。だって、その人普段とてもいい人なのです。
ついつい、ちょっとしたことでムカッとしたら他人に期待値が高すぎる証拠と認知して、他人は自分のようには動かないを念仏のように唱えることにしました。
すると、たまたまうまくいったら、すごくありがたく感じるようになりました。
すると今度はベクトルが自分に向いていきました。
いつでもきちんとしなきゃと気負っていただけかもしれない・・・
そんなに真面目にやらなくてもいいのかもしれない
ふつうの感じにしていても、十分なのかもしれない
と己をふりかえるようになりました。
他人への期待値を下げ、自分に甘くしてみたら、べき論がどんどん去っていきました。
自分に優しくすると、人に優しくなって、人への過度な期待値もなくなっていきます。
私も完璧じゃないし、他人も完璧じゃないのです。
べき論は、人を疲れさせる無限ループを起こします。
なんか生きづらいと思ったら、べき論に振り回されているだけかも?!
べき論にさよらなしてみようね。
おわり