子どもの学びの機会を奪わないで
20代前半、私は英会話講師をしていました。
夏には淡路島でオーストラリアからの留学生を迎え、日本の小中学生たちと総勢100名以上でサマーキャンプの引率もしていました。幼いころからキャンプのお姉さんに憧れていたので、そのスタッフを務められることは大きな喜びでした。
ある年、私は全体のMCと1つのグループのアシスタントスタッフを兼任することになりました。全体MCの仕事量が多く、ずっとグループの子どもたちと一緒にいられるわけではありません。グループに戻っても、すぐに彼らの様子が分からないことに、もどかしさを感じていました。
キャンプファイヤーの夜、海辺の風向きがくるくると変わる中の出来事です。
プログラムの合間にようやくグループのもとに戻れたとき、火の粉が舞っており、ちょうど自分のグループの子どもたちが風下に座っていました。外国人男性のグループリーダーは少し離れたところからその様子を見ていました。私は「子どもたちがけがをしたり、服に穴が開いたりしたら運営側の責任になる!」と正義感に駆られ、子どもたちのところへ駆け寄り、すぐさま全員に後ろへ下がるよう声をかけました。
すると、そのグループリーダーが険しい表情で私に詰め寄り、「ともみ!お前は今自分が何をしたのかわかっているのか?」と問い詰めてきたのです。
20代前半の若かった私は、腹が立ちました。「あなたがやるべき責務を果たしていないから、気が利く私が尻拭いをしているのに!」と内心思っていたことでしょう。 するとリーダーはさらに語気を強めて、 「よく見てみろ!子どもたちの学ぶ機会を奪ったんだぞ!」と言いました。
そのときの私は、自分の“善行”を咎められたことに納得がいかず、「絶対に自分は間違っていない」と思い込んでいました。
今ならわかります。
失敗から学ぶことこそ、子どもにとって何よりも大切なのだと。 そして、それをギリギリまで見守り、何かが起こってから一緒に考えることが大人の責任だと。
火が熱いと感じたり、服に穴が開く経験を通して、次にどうすれば良いかを自分で考えられるようになるのです。
大人が責任を逃れるために先回りしてしまう――そんな風潮が、今の日本には根強くあると思います。
それ以来、そのリーダーの言葉がずっと心の中でリフレインしています。
私が子どもに声をかけるとき、今でも一呼吸おいて考えます。
- 子どもの学びの機会を奪っていないか
- 自分の主張はどの角度や立場から見ても正しいといえるのか
- 自分の思い通りに子どもを誘導しようとしていないか
- 行動を変えさせることが目的になっていないか
- 子どもに逃げ道を用意しているか
- 良かれと思ったことが落とし穴になるかもしれないことを忘れていないか
この視点を持つと、子どもに注意したり怒ったりすることはかなり減ると思います。その代わりに、「あなたはどう思う?」「どうしたらいいかなー。一緒に考えよう。」と言ってあげてください。
その行動が、子どもを信じることにつながっていくと思います。
あのときはそのリーダーのことが大嫌いでしたが、今では深く感謝していて、自分の子育ての軸になっています。子育ての中で、余裕がなくなると感情のままに言葉をぶつけてしまうこともあるかもしれませんが、一度立ち止まって、是非自分の言動に注目してみてください。