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優しくなれと言われて優しくなれるほど優しさは易しくない。
スマホの画面が光り、電話が鳴った。
家の向かいのおばあちゃんからだ。
「野菜あるけどいらん?いっぱいあるき、とっていきー」
翌週、焼いたお菓子を持っていったら、
「昔の古いもん好きやろ?うちにいくらかあるき見てかん?」
おっと、お返ししに来たんじゃなかったっけ。
家の前の小さな畑で水菜の種をまいていると、
隣の家のおばあちゃんが現れた。
「この前、サツマイモ置いちょってくれたね。ありがとう。
いるもんあればうちの畑にあるもん勝手にとってきやー」
サツマイモの苗を分けてくれたおばあちゃんのサツマイモが、
イノシシに食べられたから、私の収穫をお返ししたまでなんだけど。
近所の炭窯で隣の隣の家のおんちゃんが炭を焼いていた。
「おはよう~」と話しかけると、
「白菜あるけど食べるかよ?消毒してないき、虫はおるで。」
「かまんの?ありがとう。こないだの餅、めっちゃ美味かったわ!」
次の週、餅をついたからと家の土間につきたての餅が置かれていた。
そんなことの連続で私は、これでもかというくらい人に与えられている。
「与えられている」からといって「与え返せている」わけではない。
いや、「与えられている」ほうがずっと遥かにおおい。
だから私は、与え返す隙を探す。
その一割も返せていないような気もするし、
返しきることはないと分かっているのだけど。
私の家の裏山には柿の木がなっている。
誰が植えたのかは知らない。
私の家に住んでいた先人たちが植えたのであろう柿は
この秋、毎日私の口に運ばれた。
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柿を剥きながら、会ったこともない昔の家の住人が
自分の中にたち現れる。
感謝の念を抱いてみるが伝わるはずはない。
お金を払わずとも艷やかな柿を収穫できる喜び、
秋が来れば実るという豊かさが持つ安心感、
その柿を人と「美味しいね」と共有する時間。
それらを私は確かに受け取っている。
会ったことない昔の家の住人に、
家の裏山の自然に、また与えられている。
与え返す隙を探すけれど、いよいよ難しい。
ここ大野見は標高300mの高原台地だ。
澄んだ空気のおかげで夜空には天の川がかかる。
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ああ、地球は宇宙とつながっていて、
宇宙とつながっている地球に私は立っているんだなあと、
眼前に広がる果てしなさにため息が出る。
別に星空は私を魅せようと輝いているわけではない。
ただ淡々とそこにあるだけなのだが、
ここでも私は与えられてしまう。
私が勝手に感動しているわけだから、
与え返すなんて発想がもはやおこがましい。
だが、この「与えられてしまった」感に気づく時、
「与え返したい」という欲求の種が発芽する。
いつも野菜ないか気にかけてくれるおばあちゃんの、
サツマイモの苗を分けてくれるおばあちゃんの、
つきたての餅をもってくるおんちゃんの、
彼らの長い人生の随所に、
私が感じるのと同じ「与えられてしまった」感が
埋まっているのだと思う。
優しさという形を纏って。