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凍てつく新春、田んぼで無駄を愛している
田んぼ仕事は、米を収穫して終わりではない。
秋、米を収穫。冬、稲藁を粉砕して田んぼに還す。
それを土の肥やしとし、また来たる春に備えるのだ。
睦月の冬日和、朝8時半。
まだ霜が田んぼ一面を覆っている。
何処其処に積まれている、稲藁の山が今日の敵だ。
長靴で踏み込む一歩一歩に霜がこすれる音が後追いする。
山にかくれた太陽はまだ出てこない。
藁を粉砕するのに、押切り(わら切り)という農具を使う。
テコの原理で、まとめた藁や干し草、野菜等を切る道具で、
昔から続く農家にはだいたい残っている。
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片腕の長さほどある藁の束を6等分に刻んで、田んぼに満遍なく撒いていく。
満遍なく、といっても、押切りは自ら動いてくれないので、刻む場所を変えながら進める。
連続する単純作業のお陰でダウンを脱ぐまでには身体は温かかくなってきた。
1時間ほどして、倉庫に眠っていたという粉砕機とともに登場した中里自然農園。
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なんということでしょう。
私が1時間で刻んだ藁をたったの10分で綺麗に粉砕し、畑に均一にまかれていくではありませんか。
藁を運ぶさっこちゃん、粉砕機を操縦する拓也くん、粉砕された藁を吹き飛ばす粉砕機。
なんて華麗な作業なんだろう。
無駄を削ぎ落とした動きを織りなす三位一体の流れを眺めながら、せこせこと押切りで藁を刻み続ける。
開始して2時間が経つ頃には、普段使わない腕と腰の筋肉が気持ちの良い疲れを感じ始めている。
この頃になると太陽もこの山あいを照らし始め、霜が溶けていく。
開始3時間で田んぼに積まれていた藁がすべて刻まれて田んぼに還っていった。
身体を包むあたたかさは、作業が思ったより早く終わった安堵でもあった。粉砕機のおかげなのは言うまでもない。
拓也くん、さっこちゃんありがとう。
もう御察しに容易いかもしれないが、藁を粉砕するにしても、稲を刈るにしても、脱穀するにしても、いつもこの田んぼでは、手仕事と機械の対バンが繰り広げられる。
わたしはそれが好きだ。とても。
つまり、それぞれの思想が、時間の流れが、哲学が、生き方が、一つの田んぼでともに存在することを許されている。それが心地よいのだ。
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当たり前だが、機械は早いし、正確で、無駄がない。
手作業はいつだって肉体労働で、遅くて、無駄ばかりを伴う。
それでも、私が押切りとともに田んぼに立つのは、「無駄」 と仲良くなりたいからだ。
どれだけ粉砕機や機械を携えて手伝いに来るおじちゃんの恩恵に
預かったとしても、それらをありがたく受け入れ、愛しながら、
しかし同時に、手作業が排斥されることなく、存在できる場を愛していたいのだ。
コスパ、タイパに覆われる世界で居場所を失う「無駄」に、希望を宿していたい。
その希望が何なのか、豊かさなのか美しさなのか、文化なのか創造性なのか。
その「無駄」がいつ有用なものになるのか。
「無駄」は無駄のままこの世界の塵になるのか。
私にはまだわからない。
令和6年新春、高知の山奥、七畝の田んぼから。