学校現場にちょっと気づいてほしい本音:不登校家庭が学校にあまり関わりたくないのは言葉の背景が垣間見えるから
学年が変わる時期、卒入学の時期。
不登校といえども必然的に学校との関わりが増えます。
担任や校長先生が変われば考え方ややり取りをいちから説明しないといけないし、ある程度理解しあえていた先生がいなくなれば、「学校へ行かないこと」へ完全に批判的な先生になることも考えて、いつも気を張っていないといけない感じです。
学校へいかないことは受容していても社会とは関われる状態でいてほしい
もろもろ理由があって学校へ行かない状態になったあとは、長く悩んでいるよりその状況で何ができるか、そう考えて進んできているので、社会との関わりも積極的にしたり、買物から銀行手続きからその他生活に関することなど、うちでなくても、おそらく学校に通っている子たちより生活力の高い子が多いでしょう、
それは最初からそうだったわけではなく、学校に無理やりひっぱり親子ともども心身ボロボロからの復活なわけです、
長い時間をかけて、安定しているところまでもってきている。
それを新たな学校との関わりで「後退」させたくないのです。少しの後退ならまだしも、家から出られないほどの圧力をかけるような状況に遭遇した場合、いままでのこつこつと積み重ねてきた毎日がパーです。
積み重ねることの大変さがわかるでしょうか。これはなにも不登校に限らず、耐えて工夫して積み重ねるのって、相当なエネルギーのいることです。
それは、学校現場の「裏に偏見の隠された」なんてないひとことや提案でひっくり返されるようなこともあります。ひっくり返したあとに生活が待っているのは家庭であり、担任は変わっていくし学校もいつかは卒業する。(というか籍を置かなくなる)
だから安易に壊さないで欲しいのです。よかれと思って、やちょっとでも頑張ろう、はそれは学校という価値観のなかでの「良し」や「上昇」であって、社会のなかには様々な価値観や場やこどもたちがいて、それが必ずしも上向きな行動やサポートではないのです。
良い言葉の裏側の真意をかぎ取ってしまうから苦しい
おそらく教育的な指導としてなんの問題もないひとこと。
おそらく先生が悪いのでもなんでもなく、教育者として辺りまでの助言をしているに過ぎないこと。
そんな言葉に背景を見てしまうから、学校との関わりはエネルギーを使ってしまうのです、
プリントや通信簿をもらいにいくのが嫌なわけではない。人によるけれど学校内がいやなわけではない。
要は、そのプリントをもらいにいったときの良かれと思っての褒め言葉「少しでも来れて良かったね、偉いね」というようなコメントから、
学校に来ることが「普通の人のすべきこと」
来れてない状態はマイナスなこと、ケアすべき対象
社会に出てから大変なんだからいま努力しなさいよ
といったようなコメントの生成される背景となっている価値観が一緒になって伝わってくるからだ。
そこで「人生というものは学校や会社スタイルで収まる場面ばかりではない」とか「生活力はおそらく先生より高い」とかポリシーや価値観の論争をしたいわけではないから穏便に済まそうとする。
けれどそれは気づかれないことが多く、多くの場合否定しない=肯定と捉えられてしまって、じゃあ次は何時間教室入ってみよっか、とかアップデートを要求されることになるから、けんかをしたいわけではないけれど、教育関連知識をひけらかしたいわけでないけど、はっきりと意思を伝えるのに価値観を表明するはめになる。
プリントを取りにいく、それにここまで心労がついてくるからハードルが高いのだ。
ましてや大学生とかなら保護者が出ていかずとも自分で責任をとってくれ、だけれども小学生~高校生では、価値観や思うところがあっても(親の押し付け以外の考え方で)まだまだ言語化は追いつかない。
親としての立場、こどもの状況、学校というシステムの理解、それを包含して会話しないとならないから。
学校の権限はまだまだ強いし、1家庭は押しつぶされがち
ちょっと前に記事にも書いたけれど、
義務教育と教育の義務は違う、とか言いたいことはあれど、
それじゃ屁理屈みたいになってしまう。
どうやったって今は義務教育内で、一条校に籍を置かなくてはならなくて、義務教育を終わるには学校との関わりが必要。
不登校で学校卒業できるんですか?って、学校関係に聞いたら、「されないこともある。留年もある」というだろう。
だって大丈夫です(`・ω・´)bって言ってしまったら、そうする人が増えてしまうと思っているだろうから。
ただ、その管理教育で苦しむ家庭おあるわけで、「卒業させませんよ」というそのひとことは、教育的指導にみえて、受ける側からは「脅し」であり、
~しないと~しちゃダメ
という大人になっても、自分と他人を縛り続ける鎖のようなシステムの片鱗だ。学校行っててもそれを気にしないタイプもいる。でも真面目な性質ほどそれに沿おうとして壊れる。
1家庭がポリシーをさけんだところで、学校や自治体サイズの常識に押しつぶされる。だから、するりと抜けるように、でもモンペ扱い承知でこどもに負担がかかるところは「NO」を伝える。
卒業させませんよ、の圧力には、教育機会均等法や、憲法・人権・中卒認定や高卒認定の存在、学校の仕組みや、校長の裁量に関する知識、そういったものが「不安や怯え」を減らして、対等に話あいをするために役立つ。
保護者だって、行かなくなってからただぼーっとしているわけじゃない。生活に関係ない学校が「社会に出てからこまりますよ」という前に「社会に出れるだろうか」とか「このまま進学する方法あるだろうか」とか「社会性どこで関わらせよう」とか行けないという状況から行かない、と覚悟を決めた瞬間から調べまくっている。
でも調べてなかったら、いろんな選択肢があるって知らなかったらたぶん
安易に学校の言葉、不安をあおる正論に押しつぶされている
そして、それは何年も引きこもる発端にもなりえること。そして、それを責任取るのは、その言葉を吐いた人ではないこと。
別に不登校を優しく見守ってケアして!というのではなく、いや不登校に限らず、
違う意見、違う価値観がないのを前提としたやりとり
はもうそろそろやめにしませんか?という話。その考え、は学校という社会の正解であり、その正解を信じることは教育者としては正しくて、でもそれを外に押し付けるのは違う。ほんとは国のシステムとして、学校ではない教育システムがもうひとつできたら、先生も学校も不登校も悪いことではなくおさまるんだけどなーと夢見たりしますが、現実はまだまだ変わらない。
自分を大切に、という道徳の授業するのに、
これて良かったねー
は、もう評価が入っていて、学校来てないやつは負け組、そのままではダメでもっと頑張ることが善、って「自分を大切にする」のを否定してしまっている。
大人が「自分って?」「大切にするって?」ってほんとに自分の言葉で言える人はどのくらいいるんだろう。
少なくても、それをできない大人が、全身を使って(体調含め)自分を守っているこどもたちを評価する権利などないと思うのだが(笑)