負け組という価値。
最近、というかずっと思っていたのだけど、どうやら自分は勝ち負けで行ったら負け組な気がする。
頑張って耐えて、ここを超えたら「普通の生活ができる」「普通になれる」っていう
頑張り期間
がなくても、そのわたしの目指している「普通」がほんとの「日常・普通」であるひとがほとんどであり、それが一部のひとが必死で目指しているものなんだなんて思いもよらないだろう。
車でお出かけ、とかランチを○○で、とか。
別にマウンティングの気もない、ほんとに日常の風景、そういう投稿ですら、憧れ、非日常として捉えるひとがいることを。
きっとだから、安定している人たちのソーシャルワークは、ここまで降りてこないのだろうし、「日常」が欲しいだけなのに、イメージ通りの「弱者への支援」というかたちでソーシャルビジネスを作るのだろう。
世間でいう「肩書き」みたいなものに興味がなかった若いころ。
というより敢えてつけないように反発していたところも。そして、結局は負け組になっているのだと思う。
若いころに、そのまま行けるところまで進学すれば、ある程度の地位や資格はとれたでしょう。
ちょっと古いけど、3高狙って結婚でもすれば、いろんな学びに手を安心して出せる毎日が手に入ったでしょう。お出かけや、日常の投稿も当たり前のようにできたでしょう。
頑張って、頑張って苦労をしてきても、その分「勝ち組」になるわけではなくて、ようやく普通、になるだけ。
勝ち組はそこまでの労力で疲れてないから、さらにうえを目指すエネルギーがまだ残っている。
でも、頑張って普通になったほうは、さらにうえを目指すにはヘトヘト。
そもそも
頑張る・我慢する
っていう必要があったのか。何年、何十年ものあいだ、「普通」を送れるひとたちの時間と比べて、その時間はなんだったのか。ただ楽しめばよかったのではないか。
そんな想いを時間という「資金があっても買えないもの」に抱いてしまう。
でももうひとつ、お金があっても買えないものに、
経験や知見
がある。負け組としての経験や知見は、外から奪えないし、お金をかけた講座やセミナーじゃ身につかないもの。
本質をつかむ力や、危ないものを見分ける力(リスク管理)、ホンモノを見つける審美眼。
「普通」では身に着けることのできないスキル。
ホンモノのソーシャルビジネスには、これから、そういう負け組として培ったスキルが必要になってくるんじゃないかなと思ってる。
それがないソーシャルビジネスはただの「ビジネス」で、それはきっと勝ち組のMBAとか持っているひとたちが得意な分野
福祉との境界線があいまいな、そこに「合理性」や「効率」とか持ち込んでも根本解決しないのは当たり前。
そこのニーズがなにか見つけられるのって、負け組じゃないと無理なんじゃないかなと思っています。
でも、結局人生において、なにが勝ち負けとかわかんないけど。
*社会的に「信用度があるか」とか「安定できているか」とか、っていうものが影響する場面においては、っていう意味で組み分けしました(笑)