本質を見極めれるこどもほど学びの選択肢が少ない社会っておかしくない?
うちはことし義務教育最終の年です。
思えば、学校外の学びのリソース、場所ない!!
学校や行政に情報きいても、どこも確定情報なんてなくぐるぐる回される!
って、不登校やホームスクーラー関係の活動始めたの、小4か小5のときですよ?
一般的な不登校対応は悠長なものか、登校刺激、復帰を目指すものが多く、
成長期って日々成長してるのに、長い時間かけて法案とか制度とか精査してる場合じゃなくない?
っていつも思ってました。お金がうごきそうなどうでもいい案はすぐ動くのに、教育は遅い。
そこを軽視する国って、将来が危うい。だって、先を見据える力がないから。
そして、心配したとおりあっという間に義務教育の最後のとしまで来てしまった。意識して教育関係の情報を取るような活動をしてからこそ、
N高やS高、吉本も学校始めたよね、とか多様な学びや活動の情報は入ってきて、少しは希望を持てるけど、たぶん現状、あまり実際には変わっていない。
進路のやりとりで思い出す「学校」というもの
中3。学校に足を運んでいようがいまいが、進学についてはなにか考えなくてならない年。
勉強は好き。
不登校によくいわれがちな「社会性」も最近の家庭の場合、逆にこどもたちだけでいろんなことができて最低限の礼儀もしっかりしているケースが多い
でも、学校に出席していないと、内申点がほとんどない。
最初はショックを受ける通信表の斜線も慣れるけど、やっぱり気分のよいものではない。
不登校にも教育のリソースを、ってオンラインのID渡されても、それは違う気がする。
だって、それは受験のための「勉強」であり、学校来てないから、受けられない学校がほとんどなのに、その受験のための勉強に目的意識を持てるだろうか?
勉強しない、と批判する前に、それは勉強する価値とゴールがあるものなのか、考えて生徒を鼓舞できる教育者が少ないんだと思う。
学校から離れると本質に気づきがち
親もこどもも休みたては、学校思考がベース。
学校に行かないことを「受け入れて」はいても、学校行かないと将来どうしよう、ってちゃんと一回悩んでる。
でも、その常識、からしばらく離れると、本質を追求したくなる。
学びってなに?
こどもの成長ってなに?
社会性ってなに?
自分たちのあたまで「自分で」考えて、答えを出す練習をしているうちに、学校の学び、ってほんとに学びになってる?
って思い始めてしまう。これはある意味厄介(笑)
気付いてしまったら、レールにもどったほうが効率的なのわかっていても、いろんな行事や慣例化されたものに疑問を感じるようになってしまうから。
あ、もちろん学習内容がムダというわけでも、受験がムダということを言っているのではありません。
全人口を受け入れる学校があるわけでない以上、点数その他で選別することは必要。そして教科学習も、将来なりたいモノや、生活のうえで必要な内容。
でもいまってほんとに吸収できてる?って思います。
9年。長い期間です。
不登校・ホームスクールを選んだら、その間、不確定な教育リソースのなかで日々を過ごします。それもそれで大変だけど、ほんとうに身になっているかわからない毎日を、すごくいろんなものを吸収する年代に、9年間もムダにしていいんでしょうかね。
前髪がまゆげより上なら、人の心を思いやれる人間に育っているのか、靴下が白なら引きこもりにならないのか。
学校で学びたくないから、といってドロップアウトした扱いとして、進学先が通信制等しか選べない。
いや、もともと学校に通うことができないんだから、通信で充分じゃない?という人もいるかもしれない。確かに自学が合う子もいる。それは不登校であれ、学校行ってる子であれ、本来どっちが合ってるっていうのは一定の割合でそれなりにいるわけで。
でも、リベラルアーツ的な学びはどんどん関心を持って、そして別に集団のなかが嫌じゃない子もいるし、目的(学びたい、リソースが多い等で)が明確ならそこを乗り越える子も多い。
にも拘わらず、そして圧倒的にたぶん、学校に通えている子より、
学ぶことが好き
ってことが多いのに、選べる道が少ない。すごく時間と人材(こどもたちの能力)をムダにしている気がする。
勉強しなさい!って脅して、強制させるのは簡単だけど、
「好きにさせる、好きでいてもらう」のって結構難しいこと。
恋愛に例えたら、自然に好きでいてもらうのって難しくて奇跡。
好きになれ!っていう学校のやり方は「ひとりよがり」か「ストーカー」脅威にもなりかねない。
学びの本質をいつも「なんで?」って親も子もかんがえちゃって、学びが自然で好きなのに、ほんとに自由に学べるのは、大学で普通のひとたちと並んだ場所に行ったときだけ?
って考えると、日本のこどもたちの小中高12年間、もっと有効活用できないの?って思うし(それは通う子たちの教育も含めて)、義務学校じゃないまなびを積み重ねても、(点数がよくなくて落ちるのはOKだが)受験資格は得られる、そういうシステムを早く作るべき。
IT授業を出席日数にするのはとっくにコロナ前から出来ているが、そこじゃない。義務教育の受け方に種類が欲しいんじゃなくて、
教育の多様化
が必要ってこと。いまは義務教育のなかだけ多様にしてるけれど、それじゃ義務教育に収まらないと享受できないということ。
享受できないのは、頑張って義務教育に関わらない自己責任だという視点もあるかもしれない。けど、自己否定や罪悪感、体調不良や、引きこもり、自死に向かうところに、身を置くことを頑張らせ続けるのは、社会的虐待であり、その努力って(本人が行きたくて仕方ない場合を除いて)違うほうに花開かせたほうがいい。
努力、頑張り、きれいな言葉で、本質を抑え込み、心を殺すような教育の方法はわたしたち大人世代で終わりにした方がいい。
学校に来ないと社会に出て困るよ、じゃなくて学校でのその価値観は社会にでたとき、自分が壊れるよ、とそう思うから。
面接に通りやすいハウツーより、しぐさや立ち居振る舞いによる人に対するリスペクトをちゃんと自然に持ち続けているこどもたちをこれ以上、余計な評価で貶めないシステムが欲しい。
挫折やドロップアウトは、公平な挑戦の機会のなかで体験すればいい。機会を与えられないうえで勝手にラベリングされるのはちょっと違う。
優しくケアしてほしいのとは違う。明確な指針が欲しい。
条件が厳しいのは良い、いまの状況は漠然と慣例だけで、こどもたちの機会が奪われているから問題だ。
出席がゼロで内申がほとんどない人は加算プラス100点ないと、同じ評価できない、とかでも、ゴールと挑戦できる可能性があれば、そこでの「頑張り」は自分で決めてするものだから、やる子はやる。
やらない子はやらない。それは学校外でも学校内でも同じ。
だらだらするのは、こどもたちの情報の少なさのなかで、先に目指せるものがないのだから仕方ない。
学校外を選んだら、リソースが与えられない社会にしている大人が悪い。
学校のソトでもナカでも、勉強しない!ってこどもを怒るまえに、その環境を構築できてないオトナが反省して変えていかないと。