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【重要】「常識的」に考える怖さ【陰謀論・プロパガンダ・疑似科学】
◆大体の要約◆
『常識』的な事は必ずしも正しくなく、却って、現実の正しい理解を妨げる場合もある。
欺こうとするものは『常識』を用いて正しさを偽装する。
『常識』とは?
「常識的に考えて」「何某は常識」などと、『常識』という言葉は日常生活でもよく聞かれる。
『常識」とは、一般的に正しいとされている考えや行動、また、一般人が持ち、また持っているべき知識や理解力、判断力、思慮分別などをいう。
だが個々人にとっての『常識」とは、その人が個人的に人生で獲得した知識や経験、そこから得た物事が正当かどうかの価値判断指標を指している。
当然の話だが日常的に『常識』と口にする時や『常識』に照らして思考する場合というのは、それは必ずしも社会全体で統計をとったり、ファクトチェックをした内容に基づいたものを指しているわけではない。
いってみれば個々人の『常識』とは「”一般人が持っているべき知識や理解力、判断力、思慮分別”だとそれぞれが思っているもの」に過ぎない。
ぶっちゃけ、『常識』とは、それまでの人生によって構築された「確からしい偏見」の別名であり、その人の生きてきた場所・時代、学識や経験によっても『常識』は変わってくる。
しかし、人は自らの『常識』をアプリオリ(演繹的証明の必要のない先天的に自明的な事柄)なものと認識してしまいがちなため、自らの『常識』に対しては懐疑の念を抱くことすら困難きわまりない。
今までアタリマエとしてきたことがアタリマエでないかどうかなんて普通は考えないし、考えたとしてもそれが偽という結論に至るのは稀である。
そして、懐疑出来ないという性質は、『常識』がその人にとって、デカルトの言うところの「我思う故に我あり」の「我」、つまりは全ての思考・価値判断における絶対的基礎付け、ようは絶対正義の指標となって、それに背反する事実を拒絶してしまう原因になってしまうのである。
本論ではこの『常識』が生じさせるもろもろの不都合について論じていく。
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「常識に反するもの」への排斥
前述の通り、『常識』は思考における絶対的基礎づけとなりうる。
これにより、モンティ・ホール問題のような「直感や『常識』に合わない事実」に直面した時、理屈を考慮して判断を下すという工程を完全スキップして『常識』に基づく”誤った結論”を出してしまうという事がまま起きる。
この例では、正しい主張をしたマリリン・ヴォス・サヴァントに対し、一般人から約1万通もの投書が届いたばかりか、何人もの高名な数学者までが彼女に猛烈な批判を向けた。
しかも、本人から幾度もの解説を受けてなお壮絶な批判は止まらず、否定派学者の一人などは、コンピューターを使ったシミュレーションの結果にすら1度はありえないと言ってのけたほどである。
このように、それがどんなに正しい話で、その理屈を懇切丁寧に説明されたとしても、頭からそれを間違いと決めつけてかかっている人間には殆ど効果がない。
それこそ反対者からすれば、【自分たちは『常識』に照らして明白に正しい主張をしているのに対し、相手は余りにも頭が悪くワケのわからないデタラメな理屈を振り回して非常識で誤った説を主張し続けている】くらいに思っていただろう。
そして、「こんな一目でわかる事すらわからないほど知能が低く非常識で不道徳な奴は修正してやらねば」という感じで、『常識』から外れたものへ熾烈な攻撃を行うようになってしまうのである。
ぶっちゃけ、やっていることはよく考えずに偏見で物事を判断して正しい物事を間違ってると思い込んで攻撃するという聖人君子レベルの道徳性と頭の良さを兼ね備えたムーブなのだが…
まあ、人間がもっとも残酷な事ができる状態は「自分を正義と確信している時」であるという。
このような事は『常識』によって自己の正当性を疑えないせいで起きるといえよう。
この事件からは、『常識』が人間の判断に極めて強力な作用を及ぼしている事がわかる。
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「常識外の事実」を拒絶
モンティ・ホール問題ではプロの数学者が解説を受けてなお自らの誤りに気付けないという状態に陥っていたが、この事実は、『常識』的な理屈に対する理解の深さが正しい理屈を理解する妨げとなるような場合を示唆している。
代表的な例でいえば、アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と量子力学を頑なに認めなかったのも、それが確率論を採用することにより「物理には必ず法則があり、決定的な数式がある」という物理学の『常識』から逸脱していたためという話がある。
こう考えるのもムリからぬ話で、量子論をマクロな事象に当てはめると、「今見ていた月が振り返るともう無い」みたいな話になり、これは『常識』的ではない。
『常識』的に考えれば、『常識』的にありえない事はすべからく誤りのはずであるが、現実は必ずしも『常識』の範疇に収まるとは限らないのである。
量子の状態が確率で決まるなんてことは『常識』的に考えれば実験のミスか精度の問題以外にありえないはずだが、量子力学は理論と実験でもって『常識』的にありえない事こそが現実であると証明し、今日では物理学の新たな基礎となっている。
アインシュタイン自身、相対性理論によって物理学に新たな地平を切り開いた天才であるが、その天才ですらも『常識』的な信念に反する現実を受け入れられなかったのである。
ここで顧みるべきはアインシュタインが量子力学の理論・理屈について深く理解していたという事実である。
例え、その正しい理屈や理論を完璧に理解したとしても、それまでの『常識』についての豊富な知識と深い理解があればあるほど既存の知識体系と矛盾する新説を認めることが難しくなるのである。
それこそ双方の前提が異なることを無視し、旧説と矛盾することを以って新説は偽であると確信してしまうかもしれない。
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「非常識な正解」
このように、『常識』を過信して物事を判断した場合、【非常識だが正しいこと】ならびに【『常識』的だが間違っていること】を正確に判別するのは、ほとんど不可能といえる。
それこそシャーロック・ホームズでもない限り、『常識』的に正しい事を間違い・間違いを正しいと思い込み、以降、それらを顧みることもできないので、ずっと正しいことを正しいと認められず、間違ったことを鵜呑みにし続けることになってしまう。
前者の例としては、先述したモンティ・ホール問題や量子力学に加え、地動説・大陸移動説・細菌感染症など既存の常識に合致しない新説がその妥当性にも関わらず先入観から認められなかった現象がある。
他方、後者の例としては迷信や疑似科学、あるいはプロパガンダや陰謀論を信じ込むというものがある。
特に細菌感染症の話では、当時の医学に熟達した一線級の医者たちが『常識』的に考えた結果、「複雑な問題を単純な手段で解決できるわけがない」と手洗いの有効性を信じなかったばかりに産褥熱を蔓延させてしまった。
これは『常識』がもたらした害の中でも特にわかりやすい例であろう。
問題解決に必要なのは、原因に対して適切な行為であって、それが複雑であったり卓抜しているとは限らない。
しかし、『常識』的に考えれば、幾人もの専門家が苦心しても解決できないような問題が手を洗うような簡単なことで解決できるわけがないのであり、そのような行為を試すのは無駄で馬鹿げているということになる。
このために多くの母親が世を去ることになった。
常識が死をもたらす例である。
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「常識的な間違い」
次に”『常識』的な間違い”の側に移るが、迷信というのは人々に信じられている事の中で合理的根拠に欠いているものをいい、色々と種類があるが、血液型性格分類のような「疑似科学」は科学的な裏付けがあるように見えるため、一見すると『常識』的な話のように思えるが実は何の根拠もなく、検証してみると全く効果がなかったりむしろ有害だったりする。
プロパガンダやアジテートについては、ナチスの宣伝相ゲッペルスが述べたという「百回言えばウソも真実になる」の格言通り、なんらかの宣伝を何度も聞かされれば単純接触効果により好意度や印象が高まり、宣伝内容が妥当なもの、『常識的』なものに思えてきてしまう。
それが長期にわたり、政治家や専門家などの権威によって、映画やラジオやテレビのようなマスメディア、あるいは公教育を介して行われればなおさらである。
はじめに述べた通り、『常識』はその人の人生で獲得された知識や経験に基づいているため、宣伝活動を通じて人々の『常識』を変え、誰かに都合良く改変されたり単純に間違った信念を『常識』とすることも可能なのである。
現実とは一致しない風説を流布し、ときには発表するデータやグラフに手を加え、ストーリーを捏造し、それに反するデータや意見は黙殺、あたかも風説が正しいかのように見せかけるのである。
いわば扇動者たちは自分たちに都合の良い社会を作るために人々の『常識』そのものを変革しようとしたのであり、ナチズムやらマルクス・レーニン主義だとかが猛威を振るっていた時代というのは、こうやって作られた。
まあ、この例の内にはイメージだの商品だのをよく見せようといった他愛のないものもあるが、ウクライナ戦争でロシアや他の国々がSNSを通じて自分に都合の良いプロパガンダを拡散していたという例もある。
ちなみに、最近ではこれを嫌ってSNS等を監視して恣意的な情報の拡散を防ごうという試みもされている。
陰謀論についても上記らと同様で、動画サイトやSNSなどでそういう内容に触れていく内に『常識』が更新されて行き、最終的には、その『常識』に沿う話は理屈抜きで信じ込み、沿わない話は理屈抜きで拒否してしまうようになる。
先述の数学者等が『常識』的でないから間違いとしていたのとは逆に、『(”目覚め”てない人々にとって)常識』的だから間違いという風に反転してしまうのである。
大薗博記准教授が陰謀論にハマりやすい人間の特徴を調べた調査でも、陰謀論にハマりやすい人は論理的に考える力が弱く熟慮性が低いという調査が出ており、ようは深く考えず軽率に判断する人は陰謀論にハマるということである。
このように、『常識』的であるというのは、実は思考を停止させ軽率な判断をもたらし、トンデモナイ方へ人々をいざなうという恐ろしい一面を持っているのである。
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結論:自らに疑いを持てるか?
『常識』というものは個人的なものであるから、その人が接触した物事や人物に対応して個人の中でも移り変わるものであり、そのため、以前の『常識』が『非常識』になる事も、その逆もままあることであり、誤った信念が『常識』の地位に就く事も古今珍しいことではない。
正しいはずの『常識』そのものに誤謬があったり、プロパガンダによって”誰かに都合の良いもの”にすり替えられたとしても、そのことに疑問を持つこと事態が難しいのが『常識』なのである。
これまで述べた通り、『常識』の呪縛は強く、一旦、その『常識』に囚われれば、それを否定する理屈や事実を突きつけられたとしても、「非常識な主張はデタラメに決まっているので内容を理解する必要はない」という風にそれを無視したり、あるいは確証バイアスや自己暗示のような正当化をはかってまで事実を否認しようとしてしまう。
その物事について理解を深め理屈で論じられれば、それが原理的に成り立つか否か、現実のデータに照らして合致しているか矛盾していないか等、仔細に確認し、その真偽を判定することも可能であろうが、はじめから思考停止していれば、”自分は正しく相手の主張はデタラメ”と思い込む事しかできない。
仮にワクチン接種で5Gに繋がる的な主張をする人に、5Gの特性やワクチンの成分や、その機序などを詳らかにして、その主張が原理的に不可能と説いたとしても、その人は自分の『常識』に照らして、相手の主張する一切を「闇の組織か何かが広めた偽情報」だと判断し、自らの『常識』こそが正しいのだと熱弁してしまうだろう。
【それについて何も分かっていないにも関わらず、”それが正しい・デタラメなのは自明”として思考や理解を放棄する】と書くと、ものすごい愚人や耄碌した人だけがそういう状態に陥るのだと思ってしまうかもしれないが、この『常識の罠』は誰でもハマる可能性がある問題である。
モンティ・ホール問題で正しい説を批判したのはその道の専門家だった。
【自分は分かっている】という自認は「無知の知」の逆を行くもので、実際、ビックリするくらい危うい事である。
オルテガは「大衆の反逆」内で”知的エリートが自分の専門外であっても専門と同等の知見を示せるという思い込みを持つ事”を批判したが、どんなに聡明で経験豊かで権威ある地位の人間であっても、知らないことは知らないし、理解してないことは理解してないのである。
そして、設問が示される前からそれに正答できるか確実に断言できる者がいないように、自分が何を知らないかを全て理解している人間は存在しない。
故に、『常識』的に考えて分かりきった事と思っても、一応は理性を働かせ、その意図や理屈を理解し、その妥当性を個別に測ることは道を踏み外さないために必要不可欠な工程なのである。
それで、もし「分からん」となったときは判断を保留すれば良い。
緊急性がないのであれば、材料が集まるまで判断せずに置いておけばよいのである。
これで大概の陰謀論やらなんやらには騙されずに済み、正しい事を間違っていると思い込まなくて済む。
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あとひとつ言い含めておくとすれば、わからない事について人の話を聞くのはよいが判断まで委ねてはならない。
そもそも、”分からない”という状態はその人がちゃんと理解しているかを自分では判断できないという事である。
どんなに信頼できそうな人でも分かってるか分かってないかは別問題であり、また、意図的か無意識に特定のイデオロギーの影響を受けている場合もある。
何についても、いろいろな見解に触れ、納得して判断ができるまで自分で考えて結論を出さなくてはならないということ。
そして、もし、結論が自分の『常識』に沿うものでないのなら、君子豹変すという言葉のごとく『常識』の方をアップデートしよう。
アップデートした結果が間違いという事もありうるが、この姿勢を続けていけば、常に「前よりはマシ」になってはいけるだろう。