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即身仏について⑥
【最古の湯殿山系即身仏】
記録に残る最古の湯殿山系即身仏は新潟県の玉泉寺に祀られていた淳海上人である。玉泉寺は明治期の大火で焼失し、即身仏も失われた。その後、写真家・内藤正敏氏の調査で、遺骨が残されていることが明らかになっている。 場所柄、同じ新潟県に祀られている全海上人に影響を与えたとも言われる。
【全海上人】
全海上人は「菱潟の御坊」とも呼ばれ、新潟県東蒲原軍鹿ノ瀬町菱潟の観音寺に祀られている。
若い頃は大力で知られ、阿賀野川で筏乗りをしていた。しかし、妻子に相次いで先立たれ、世の無常を感じて出家、湯殿山表口別当の大日坊で修業を積んだ。18年に亘る修行の後帰郷し、阿賀野川の難所の開鑿に尽力した。貞享元年から五穀を絶ち、木の実などを主食とする木食行を開始。入定の日が近づくと、身の回りの世話をしていた善太郎と善四郎の2人(兄弟)に「死んだら土中に埋葬してはならぬ。このままの端座の姿で即身仏として祀れ」と遺言し、貞享4年に85歳で入寂した。善太郎と善四郎は師の遺言に困惑し、家族の助言で藩の寺社奉行に届け出た。そして、寺社奉行の裁可で即身仏として祀る許可が出、現在に至る。湯殿山系の行人としては珍しく土中入定をしていない。
全海上人は腰から下の病気、特に脱腸には霊験あらたかとされ信仰されている。これは、脱腸が筏乗りの職業病であったためとも言われる。
上述したが、全海上人が祀られている鹿瀬町の近くに、現在は失われたが淳海上人が即身仏として祀られていて、彼も湯殿山系の行者であったことから、全海上人に影響を与えたものと考えられる。この淳海上人も土中入定をしていない。
【失われた即身仏・金剛院祐観】
宮城県白石市に萬蔵稲荷神社という神社がある。祭神は金剛院祐観という行者である。彼は俗名を萬蔵といい、馬方をしていたが、霊威を得て出家、出羽三山で修業を積んだ。その結果、空を飛ぶ術を身に着けたという伝説が残る。弘化年間に没し、死後、即身仏として祀るよう遺言した。
遺体は萬蔵稲荷神社で祀られ、彼の子孫が保持してきた。しかし、大正時代に人手に渡り、そのまま行方不明になってしまった。どうやら興行師の手に渡ってしまったらしいが、当初、学術調査の名目で訪ねてこられたため、関連資料をすべて渡してしまい、神社には即身仏の写真2枚が残るだけだという。
朝日新聞に彼のことを書いた記事があったので、リンクを貼っておく。詳細は土方正志氏の『日本のミイラ仏をたずねて』に記されている。今、手元になくて参照できないが、私の記憶が正しければ、彼は羽黒山系の行者だったようで、現存していれば唯一の羽黒山系即身仏であった。