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真如海上人の伝説を巡って

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山形県の大日坊に即身仏として祀られている真如海上人は、長寿だった割には不思議なほど伝承がない人物である。

寺伝によると、真如海上人は農民で、ある時、畑にまく肥(こえ:肥料、多くは糞尿)を桶に入れて運んでいたところ、一人の武士とすれ違った。上人は道を譲ろうとしたが、その時、桶が揺れて、肥が武士にかかってしまった。激怒した武士に斬り殺されそうになり、近くにあった稲杭を抜いて応戦したところ、勢いで殴り殺してしまった。上人はそのまま大日坊に駆け込み、出家して一世行人になったという。
ただ、このエピソードはいろいろと不審な点が多い。以下は、内藤正敏氏の研究を踏まえた私の感想である。

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まず、農村に武士が一人でいたのがおかしい。武士が農村に出向くこともあっただろうが、武士は出歩く時、必ず供回りを連れて行くものだからだ。次に、農民である真如海上人が、剣術の稽古を積んだ武士と渡り合えるだけの技量を持っていただろうか。鉄門海上人にも武士殺しの伝承があるが、鉄門海上人の場合、喧嘩慣れしていたようなので、形式的な立ち会いしか経験していない武士より優位に立てた可能性はある。
湯殿山を含む庄内平野を支配していた庄内藩は、かなり強権的な支配を行っていたようで、トラブルで武士が農民を手にかけても処分が甘い傾向があったという。こうして理不尽な目に遭わされた農民たちが、支配者=武士に対する抵抗として生み出したのが、真如海上人の「武士殺し伝承」であったと内藤氏は考察している。

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真如海上人の即身仏

真如海上人は天明の飢饉の際、衆生救済を祈念して土中入定したという。96歳という高齢である。そのためか、現存する即身仏の中でもっとも保存状態がいい(穀断ちの影響に加え、加齢で肉体の脂肪分が削ぎ落とされ、ミイラ化しやすくなっていたと思われる)。ただ、その最期も一般的な土中入定伝説の域を出ず、入定墓の痕跡もない。ただ肉体だけが現存している。真如海上人は本当に生前の業績が伝わらない人で、上記の出家にまつわる伝承と土中入定の伝承しか残っていないのである。即身仏については「死」に対する興味の延長で関心を持っていて、関連書籍は一通り読んだが、真如海上人は長寿だった割に伝承が少なすぎる。真如海上人が祀られている大日坊は明治時代に火事に遭っており、それが原因かもしれない。


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