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海向寺の即身仏と作祭りについて

山形県酒田市の海向寺は、2体の即身仏を祀っていることで有名である。海向寺は湯殿山の末寺の行人寺で、湯殿山の一世行人が住職を務めた。一世行人は湯殿山別当4ヶ寺に仕えて雑用などを担わされており、行人寺の住職になることは破格の出世であった。鉄門海上人も一時、海向寺の住職を務めたという。
祀られている即身仏の一人は忠海上人で、本明寺に祀られている本明海上人の親族(甥)であるという。もう一人は円明海上人で、鉄門海上人の弟子であったが、師匠に先んじて入定し、即身仏になったという。

この2体の即身仏は、他にない特徴がある。2体とも燻され、いわゆる燻製ミイラにされているのである。伝承によると、忠海上人は入定後掘り出したときは生乾きだったため、姿勢を正したうえで燻して固めたという。円明海上人のほうは不明だが、燻したうえで柿渋を塗って補強してある。円明海上人は大柄かつ肥満体で、ミイラとは程遠い体型である。報告書『日本ミイラの研究』では円明海上人について、「(皮膚表面に細かい皺が入っていることから)腐敗しかかった遺体を燻して無理やり固めたのではないか」としている。これは異例のことで、円明海上人が、意思に背いて即身仏に仕立てられたことを示唆しているようにも取れる。
ちなみに海向寺には「作祭(さくまつり)」という、五穀の出来具合を占う行事があった。一世行人はこの祭りで憑坐(よりまし:霊媒)を務めることになっており、元は憑坐に必要な霊力を得るため、木食行のような過酷な行を行ったのだという。木食行は即身仏になるためには必須の行(穀物を絶って肉体の脂肪分を落とす)だが、本命は上記のとおり憑坐としての霊力を得るためのもので、即身仏を志さない行者も含めた全ての一世行人がこの行を行っていた(このあたりは『日本ミイラの研究』所収の堀一郎先生の論文を参照)。

『新編 日本のミイラ仏をたずねて』によると、明治時代になっても即身仏を志す行者はいたそうである。霊雲海上人と善海上人は明治維新後、刑法の制定で土中入定ができなくなったため(支援者が自殺幇助に問われる)、即身仏になるのを諦め、代わりに自身の肖像を作って奉納したという。2人の木像は海向寺に現存している(『日本のミイラ仏をたずねて』旧版にはたしか写真があった)。


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