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即身仏について⑤

【湯殿山の別当寺院の実態と即身仏】
湯殿山には4つの別当寺院があり、大日坊と注連寺を表口、本道寺と大日寺を裏口と言った。しかし、同じ別当寺院でありながら、表口二ヶ寺と裏口二ヶ寺には格差があった。どういうわけか、裏口二ヶ寺の寺領は寺社地として非課税だったのに対し、表口二ヶ寺の寺領は百姓地扱いで課税されていたのである。そのため、表口二ヶ寺は年貢で財政が圧迫されていたらしく、何らかのかたちで収入(喜捨)を得る必要があったらしい。これもまた、即身仏信仰誕生の背景と言われている。
即身仏となったのは湯殿山の一世行人(別火、非妻帯を義務付けられた下級の行者)だったが、明海上人を除き、みな表口系の行者である(ただし、上人号を持たない光明海は明海上人と同じ裏口系の行者と考えられている)。
明海上人は湯殿山系即身仏では特異な人物で、先に述べた通り裏口系の行者で仁和寺から上人号を授与されている。即身仏は上人の実家の子孫が所有・管理し、現在に至っている。

【白鷹の即身仏】
山形県白鷹の蔵高院に祀られる光明海は、湯殿山系即身仏で唯一、上人号を持たない。発掘された際、副葬品に櫛などがあったことから、身分が低く剃髪していない行者であったとも言われる。「即身仏になるゆえ、百年経ったら掘り起こしてみよ」と遺言したといい、村興しの一環で発掘を試みたところ、一部白骨化していたが現存していた。入定から120年余が経過していた。
土方正志『新編 日本のミイラ仏をたずねて』(天夢人)によると、ミイラが残っていたときのことを想定していない、ある意味で無計画な発掘だったため、事後に相談を受けた日本ミイラ研究グループの2代目リーダーで新潟大学教授の小片保博士にはひどく怒られたという。
光明海にまつわる資料は少なく、口碑の他には墓碑と過去帳しかない。そのため、湯殿山行者ということしかわかっていない。一方で、発掘調査は江戸時代の入定墓の構造が判明したことで、学術的に高く評価されている。

【弥勒下生信仰と日本最古の即身仏】
弥勒信仰には、弥勒菩薩が修行している兜率天に往生して、弥勒菩薩の下生とともに再びこの世に戻ろうという「上生信仰」と、弥勒菩薩がこの世に降臨するまで肉体をミイラにして待とうという「下生信仰」があった。弘法大師空海は前者の信仰を持っていたようである。
後者については、新潟県西生寺に祀られている弘智法印が現存する唯一の例である。弘智法印は弥勒下生信仰を持ち、はるか未来の弥勒菩薩降臨まで自身の肉体を残そうと、木食行を三千日行ったという。弘智法印のミイラは現存するが、西生寺が無住だった時代にかなり傷んでしまったようである。
弘智法印のミイラ(即身仏)は古くから有名で、松尾芭蕉に随行した河合曾良の日記や菅江真澄の著作などで取り上げられる。特に、鈴木牧之の『北越雪譜』は挿絵入りで丁寧な叙述である。文中に「枯骸なほ生けるがごとし」とあり、江戸時代までは遺体の保存状態は良好だったようだ。

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