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異形の念仏行者、待定法師

待定法師は江戸時代の念仏聖(ひじり)で、出羽国の人である。彼の事績については『出羽待定法師忍行念仏伝』という書物にまとめられているが、以下は松本昭『増補 日本のミイラ仏』(臨川書店)の記述に基づく。
今、手元に本がなく調べられないのだが、待定の出自はたしか農民であったと思う。ある時、高僧として名高い無能和尚の説法を聴いた待定は、発心し入門を願い出る。しかし待定は結婚・妻帯しており、かつ一家を支える身であった。そのため無能は入門を許さず、優婆塞(うばそく:在家信者)として修行することを薦めた。それにより待定は優婆塞として念仏三昧の生活を始めたが、やはり出家の志を捨てがたかったか、出先で雨宿り中に、濡れて佇む地蔵石仏を見て思うところがあり、妻子を捨てて剃髪した。その際、煩悩を断つとして自らの男根を切除している。

待定の伝記『待定法師忍行念仏伝』

それから待定は、狂気のような荒行を始める。その代表が「燃指供養」で、これは指先に灯明をつけ、指ごと焼き尽くす壮絶なものである。他にも棺を思わせる大箱に入っての断食不断念仏、高下駄を履いて屋根に登り、水盃を捧げながら月の出を待つ月待ち行などを行っている。
その後、各地を行脚し、帰国して亀岡文殊堂こと大聖寺に身を寄せるが、夢告を得て鐘楼の建立を発願し、それを成し遂げる。47歳の時、土中入定を試みるが、その際、自分が想いを寄せる地が八十七あり、そこへ形見を送ると言って、舌などを切り刻んで肉片を作り、封をして送った(この八十七という数は八十八ヶ所を意識したものではないかともいう。八十七に、大聖寺に眠る自身の肉体を加えると八十八になる)。そのうえで全裸になり、用意してあった入定墓に入った。その後しばらく、訪れる人に墓中から十念を授けていたという。享保年間の話である。

待定が発願して造立した大聖寺の鐘楼

その後、日本ミイラ研究グループが学術調査を試み、発掘が行われたが、現存する入定墓は再建されたもので、遺構は土砂崩れか何かで押し流され、残存しないことが明らかになった。ただし、テレビ番組の取材で発掘に立ち会った中尾彬氏は、入定墓の位置そのものに疑問を呈していたという(1990年代、『追跡!』という2時間のドキュメントバラエティー番組があり、その中で時折、即身仏を取り上げていた。そのコーナーの担当が中尾彬氏で、日本ミイラ研究グループの調査によく同行していた)。
なお、現在、大聖寺で行われている亀岡念仏踊りは、待定の供養として始められたという。


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