第63回: Innovationの道? (Oct.2020)

 見覚えのない番号に出ると “再開したよ、いつ来る?” と近所のマイクロブリュワリー。いざ訪れれば貸し切り状態だったり目当ての味がなかったりもするが、やはり気分は違う。引き籠り当初は数日分まとめて遠慮がちに使っていた宅配サービスも、今や各種アプリを使い分け日に3便・5便届くのが常態。Lockdownで路肩が露になってから発注されたであろう道路工事は、車両が戻り始めた今頃になって掘削が本格化、街の活気を増幅している。長らく犬や猫や鶏や人の寝床となっていた土管の山は消えたが、“手前で待って譲る” 習慣のない片側通行区間はどこも真ん中でお見合いし双方の後続車が警笛合戦を繰り広げる。周囲を気にせず振り回されるユンボのアームや持ち上げられたダンプの荷台は、一瞬の隙を突いてすり抜けようとする二輪のヘルメットをかすめる。

 国外どころか町内からほぼ出ない生活を続けて半年。故に尚更、常につながる日本との違いを痛感する。想像の及ばないこの世界観、いくら言葉を重ねても伝わらないどころか “頼んでいることを一向にやらない” と不満を買うくらいなら、いっそ “依頼通りの失敗” に付き合うかとも魔が差すが、これ以上、お家芸を重ねたところで日本の評判を落とし “カモネギさん、いらっしゃい” と待ち構える輩を肥やすだけ。すっかり「型」が確立された手取り足取り日本企業主観の新興国アプローチだが、ネットの情報すら見ないようでは、今のインドに相手にされない。

 伝統的な「型」を重んじるのは日本の国民性だろうか。記す、一服する、花を生けるというありふれた日常すら芸術性を持った「道」に高められ、好き嫌いを覚える前から生活習慣として繰り返される。先人が積み重ねた好例・ベスプラを基礎に、時代に沿った革新を加え続ける「道」は、間違いなく日本社会の共通認識や行動様式に繋がっている。2,700年に渡り万世一系の一貫した価値観が堅持されるという日本において、生活そのものが科学的合理性と芸術性を兼ね備えた「道」となっているから、繊細な感性で細部への気付きをもってカイゼンを繰り返す類のInnovationは日本のDNAとも言えそうだ。

 他方、ぱっと見の「型」が守られる限り、多少の実態の相違には寛容なのも、もう一方で「型」の意味するところ。盛んに謳われる “Innovation” がいざ実践される際、決まって新規事業、実証実験、PoC等と言い訳が付されるのが暗に、現状の「型」を尊重しその範囲を出るものではありません、という宣言だとすれば、結果が元の「型」の範囲を出られないのもむべなるかな。返って「型破り」ばかりを繰り返せば鼻摘み者扱いされてもやむを得まい。

 Startupブームも手伝い、Innovationの枕詞にDisruptive (破壊的) やExponential (加速度的) の言葉も踊る日本だが、その割、結果としての変化は極僅か。むしろ世界市場での存在感は縮減する一方にも感じるが、詰まるところ「型」を動かすだけの Innovationの絶対量が足りていない、明確なベクトルも定まっていない、ということだろう。Diversityを謳いつつ実際は異論を排除するだけの日本の為政者・権力者の下においては、ひとり二人の「型破り」でなく、“Innovationの束” を創出しない限り、「型」としての進化・変革には至らない気がする。

 翻って、JUGAADがDNAに刻まれたインド。社会に溢れる「型破り」は、大抵いつもヤッツケや即興一発芸に止まり継続性も再現性もないから、「型無し」と表現するのが相応しい。世界を広く見る当地の企業が目を止め事業に取り込むのは “WOW Value” だけ、日本の「型」など知る由もないし、買い得感も新規性もないMade in Japanは歯牙にもかけない。むしろ多くの日本企業が求める「型」に付き合うのをメシのタネとする事業者も多いから、ますます、インドへの初めの一歩は目的意識が問われる。

 JUGAADと「型」との融合、すなわち “Innovationの道” を築ければ、やがて “Innovationの束” も生まれよう。改めて、インドはグローバルの道場、インドでイノベーションへの挑戦が今の日本には求められている。

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