国葬儀は流れ解散
国葬儀では献花した後そのまま退場する。葬式では焼香した後出棺を見送る経験しかないから驚いた。既に遺骨になっているから出棺することはない。5時間も何をするのか不思議だったが、保安のため入退場は厳しく管理されているから急病にならない限り献花するまで帰れない。私物を持ち込めないなら当初六千人と言われた招待者に欠席が増えて四千人になるのも頷ける。
しかし普段決断が遅い首相が早々に国葬に決定した時、鉄は熱いうちに打てだけではなく遅くなればなるほど国葬にできなくなると分かっていたのではないだろうか。後の内閣改造時において難局突破と述べたのが唐突だった。確かに課題は山積みだったが、日本に差し迫った危機はない。新たな問題は旧統一教会しかなく、この問題がそんな難局になるのかと違和感を覚えた。
しかしこの旧統一教会問題はその後内閣支持率下落や国葬反対に発展する。文部科学省は簡単に解散命令は出せないと言っているが、確かに国葬される本人の最大派閥が空中分解でもしない限り難しいのだろう。それよりも開催すれば必ずやってよかったと言われるとオリンピックを開催した当時の首相が国葬されたリーダーの後継者との意見が復活しているのが我慢できない。
弔辞はお涙頂戴の浪花節だ。国葬もやれば良かったと言われると一般献花の長蛇の列と共に成功した。焼き鳥屋でもう一度と口説いたのが一番の功績だとの自慢は全くの手前味噌だ。まだアベノミクスを続ける日本銀行の政策が今日の円安を招いている。「民主主義は分断がお好き」にも書いているが、国民を分断したトリクルダウン理論に基づいた政策を許すことはできない。
口説かなければ失われた30年にはならなかったもしれない。もっと許せないのは「今より後の世をいかにせむ」だ。明治時代でもあるまいし自分の力で世の中はどうにでもなると考えているのだろうか。さすがに一人ではないが自民党が牽引するとの自負であり、自民党独裁の傲慢にしか聞こえない。「丁寧とは礼儀正しくを入念に」のように、国家を私物化してはいけない。