「張り込みにはパンと牛乳をSecond①」
「やあ、遅れてしまってすまないね」
待ち合わせの時刻より、少し遅れてあの人は現れた。久しぶりに足を踏み入れたこの土地は、あの人にとっても嫌な思い出ばかりのように思う。それでも、この日にここを訪れることは、私たち2人にとって必要な時間であり、これからもこの鎖のような縁が切れることはないと思う。
「ええ、いいの。あなたが遅れるのはいつもことだから」
再会を喜ぶこともなく、私たちはタクシーに乗って目的地へと向かった。本当はこれまでのこと、今のこと、懐かしい顔を見ながらたわいもない話をする時間が欲しいところだけど、これから向かう先でのことを考えると、自然と口数は少なくなってしまう。
「はい、お待たせいたしました。目的地に到着です。料金は3,500円になります」
「では、こちらで」
「はい、ありがとうございました。お忘れ物のないように」
駅から10kmほど離れたこの場所に広がる風景は、何度見ても心がギュッと締め付けられてしまい、過去の罪悪感のようなものを感じてしまう。
「またここに来ることになるなんてな」
「そうね、出来ることならこれで終わりにしたいところだけど、そうも言えないわ。でも、あなたはもういいと思う」
「そういうわけにはいかないよ。今はこうして別々の道を歩んでいるが、ここには僕たちを育ててくれた大切な恩師がいるわけだから」
「そう。あなたと顔を合わせることは、出来ることなら避けたいところだけど、それが出来ないのは先生の前だからであって、じゃないと…」
彼に対して自分の中にある感情が、嫌な形で溢れ出そうとするのを堪えながら、先生の待つ旅館へと足を運んだ。
「いや〜、2人とも遠いところよく来たね。わざわざありがとう。しかし、君たちはまるで歳をとらないな。今でもお似合いだ」
先生の何気ない言葉が毎度毎度胸に突き刺さってくる。会う度に言われるこの言葉に最初は戸惑いを感じていたのだけど、今日はやけに深く抉ってくるように感じる。
「先生、私たちは色々な理由があって別れることを選んだの。この人と一緒に居ることは私の中では限界で、これ以上先を見ることは辛いことしかないと思ったの。でもそれを止めて自分が幸せに歩む道を選び直したから今の私がいて、幸せな私がここにいるの。だからお似合いだと思われるのはあのときの私たちとは違う私たちがここにいるからで、そして私はそれを望んでいません」
昔の関係性というのがあるせいで、今を色眼鏡で見られてしまうことはよくあること。過去の自分が悩んで苦しんで出した答えを持った私がここにいて、今の私が過去に縛られるわけにはいかないから、自分として違うことを伝えることは必要なのだが、それはときに相手を悲しませることにも繋がってしまう。
「そうか…、それ余計なことを言った。申し訳ないね。ささ、お茶でも出すから楽にしてくれよ」
先生は少し気不味い様子をみせたが、この雰囲気を変えようと私たちを旅館の中へ案内した。
人の記憶や印象によって自分を曲げられことは、相手にとっては悪気はないものでも、自分にとって苦痛に感じられることもある。それを許せる心の余裕があれば水に流すことも出来るのだが、今日の私はそれを許すことが出来なかった。
「しかし、いつ来てもここは変わりませんね。変わったとしたら、先生の白髪が増えたことですかね」
私が溜飲を飲まされたのを知ってか知らずか、彼はいつもの皮肉を先生に展開し始めた。
「日本という国は地域によって昔からの文化や伝統的な家屋の維持を優先した場所もあれば、先進的、機能的に作られていく街もありますね。例えば東北の日本海側では冬に大量の雪が降るので、屋根の勾配が均等ではなく、平仮名の『へ』のように南に向かって屋根の足が長くなっていています。太陽の熱を利用して雪下ろしがしやすいよう作られ、陽のあたりにくい北側に雪が積もらないように工夫しています。瓦よりもトタン屋根を優先しているのもその一つでしょう。
ある意味先生にお会いすることは、昔ながらの日本人に会う機会でもあり、日本の伝統や知恵を体感する良い機会になります。このあと東京に戻りますが、先進的な文化と伝統的な文化の差異の中で私は良いアイディアが生まれそうです」
そう言いながら彼は口元を緩ませた。
この人は思ったことを口にするが、話す内容が皮肉に聞こえたり、人に無礼に働くことを理解して言っているように感じるときがある。
「私の国でも多いのですが、若い人は先人の知恵や言葉を大切にすることは難しいです。頭では分かっていても、自分がチャレンジしないと納得するのが難しいからです。
ただ、自分を勇気付けるために、先に歩んだ人の心意気に共感し、自分を肯定し続けるために利用することがあります。
自分が身をもって経験して初めて先人の言葉の重みを知る。もちろん、痛い思いだけでなく、成功もありますが、人が誰かの言葉に影響を受けるのは、残念ながら苦しいときや困難なときが多いです」
「そうね、確かに自分は大丈夫という自信や、足りていないという感覚は、何かを物差しにした思い込みのことが多いわよね。その思い込みは価値観やプライドとして、そうプライドが悪い方に働けば自分や他者を許せない葛藤が生まれ、こんなはずじゃなかったと何かを責めてしまうこともあるのよね。
先人の言葉や経験が目の前にあっても受け入れられないのは、そんな自分のプライドが邪魔をしているように思うわ」
先生に聞こえているかいないかは分からなかったが、私たちはお互いが感じたストレスを息の合ったやりとりで解消していた。
季節や暦を数えると、この時期にしてはと思うってしまうが、東北の春は縁遠く、パチパチと音を鳴らした囲炉裏の前で静かに先生が薬膳茶を出してくれた。
季節の変わり目にお勧め!気の補充と循環を促す薬膳茶(3人分)
材料:マテ茶 6g
マイカイカ 3つ
シナモン 3g
陳皮 1.5g
八角 果実1つ
なつめ 6g
お水 600cc
「ご存知の通りマテ茶は世界三大飲料と呼ばれている飲み物の一つで、主に南米が生産地じゃが、ビタミン、鉄分、カルシウムなどミネラルを豊富に含む『飲むサラダ』として有名じゃ。今回は茶葉を煎ってローストしたものを使っているから多少香ばしいじゃろう。
またこのお茶は愛情や欲望に関連付けられることも多く、恋人と一緒に飲むと仲良くいられるとも言われておる。ほっほっほっ」
「先生、今のは誰に向かって言ったのかしら?もしかして私たちかしら?」
『じじい!ほんと、何度言っても分からないわね!』と声に出しそうになったが、お茶の説明を兼ねて冷やかしてきた、先生のニヤけた顔を見て『この人はやっぱり私の師匠なんだ』と理解もした。
ゆっくりお茶を啜りながら、ほのぼのとした時間が過ぎていった。
彼は徐ろに立ち上がり、時計を見ながら私たちにこう言った。
「先生、私の進むべき道が分かりました。しかし、それは過去にはありません。新しい道を作っていくために、もう一度、今を作り直すことが必要です。今までは時間という約束に縛られて諦めたことも、見ないようにしたこともありますが、もうそんなことはどうでも良いです。
なぜなら私が居る場所が『今』なのだからです。先生御達者で。『未来』にまた訪れます」
「おお、約束はせんが、未来に会えるのを楽しみにしておるぞ」
先生は目を細めて次に訪れる私たちの姿を思い描いているようだった。
「先生、急にバタバタしてすみません。これにて私たちは失礼いたします。先生、本当に御達者で」
旅館に呼び寄せたタクシーに乗り、私たちは駅へと向かった。彼は何かを決意したように晴れ晴れとした顔で風景を眺めている。
改札を抜けてホームに上がるエスカレーターがホームに着く頃、何やら騒がしい声が聞こえてきた。その声は一度、どこかで聞いた声だった。
「あら、あの子ね」
続く
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